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2012年12月14日金曜日

手子后神社(神栖市)

茨城県神栖市(旧波崎町)波崎に鎮座する手子后神社のご紹介です

創建は神護景雲年間(767-770)と云われています

御祭神は武甕槌大神の娘神である手子比売命(てごひめのみこと)です

此方は社伝によると、以前紹介した大洗磯前神社と、同じ神栖市に鎮座する息栖神社とともに、「鹿島神宮の三摂社」と称されてきたそうです

以下、神社由緒書の抜粋です

『鹿島史によると神遊社ともいい、御祭神は、大神の御女なりとある。又一説には「常陸風土記」の「童子女の松原」に見られる安是の嬢子を祀った社とも言われている。

神護景雲年間(西暦七六七年)の創建と伝えられ、古くから息栖大洗両社と共に鹿島神宮の三摂社と称されている。

当社は漁師の信仰が厚く、鎮守祭には出漁しない習慣がある。この時期は大時化になることが多く、当社を信仰する漁師はこの習慣により難を免れた。以前は初出の漁船、また遠隔地へ行かれる漁船は必ず利根川の明神下まで船を進め、その無事を祈って船出した。』

ここで出てくる「童子女松原(おとめのまつばら)」とは常陸風土記に書かれた恋人同士の話です。

常陸風土記は他の風土記と同様に、和銅六年(713)に風土記編纂の官命があり、養老五年(721)に成立した常陸國の地誌で、現在写本の残る五つの内の一冊になります

以下「童子女松原」の概略を書いていきます。

離れた土地で別々の神に仕える少年少女がいました。少年は童子姿をし、那賀(なか)の寒田(さむた)の郎子(いらつこ)といい、少女は海中(うみなか)の安是(あぜ)の嬢子(いらつめ)といいました。共に美しいとの評判は二人の耳にも届き、いつしか会いたいと思い、逢わないままでお互い恋に落ちていきました。その二人が偶然歌の会で出会います。気持ちの抑えられない二人は夜陰に紛れて松の下で語り合います。この逢瀬にますます思いは募り、時を忘れ、二人は鶏の鳴く時となって、甘い夜が終わったのを知ります。朝になれば人に見られてしまう、これを恥じた二人は松の木に変じてしまいます。郎子の変じた松を奈美松(なみまつ)、嬢子の変じた松を古津松(こつまつ)と呼ぶようになり、付近を童子女松原と呼ぶようになりました。

奈良時代に既にこういう話が伝わっているなんて、昔の人は相当ロマンチストなんですね。ただ、まあ昔の名前なんで当て字なんでしょうけど、松に変化した後の名前、男女逆でもいいんじゃないんでしょうか?女性で古津松って、何か可哀想な気が…(^_^;)

因みに舞台となる場所は「童子女の松原公園」と言う名の公園になっています。松に囲まれた2人の像が立っているそうで、神社からもすぐ行ける場所だったのですが、この話自体をつい最近知ったので残念ながら行っていませんorz下調べって、大切ですよねヽ(´o`;

 

さて、神社です

当社鎮座地は茨城県と千葉県の県境になります。神社のすぐ目の前を巨大な利根川の河口が広がり、銚子大橋が延びて茨城県と千葉県を繋いでいます。銚子大橋を渡ると関東平野の最東端、犬吠埼もすぐです

神社は千葉県側から向かう時には、国道124号である銚子大橋を渡り、橋が終わるとすぐに一の鳥居が見えるので分かりやすいのですが、茨城県側からくると、銚子大橋に出る直前がカーブになっており、入り口が結構見え辛いです。予想通り僕は橋の真ん中で神社を過ぎたことに気づきました(´Д` )

銚子側から茨城県を見ます

一の鳥居と神額です

と、此処で二の鳥居の写真が無い事に気づきました!何てこったΣ(・□・;)

境内です

すぐそばを交通量の多い国道124号が走っていますが、車の音は気になりません・・・が、参拝した時は運動会期間だったため、お隣の小学校からは出し物の練習なのでしょう、結構な音量のAKBと、拡声器から轟く先生の熱の篭った指導の声が響き渡っていました

年季の入った狛犬です

舵手同志會、機関士同志會から大正十五年に奉納されています

手水舎です

拝殿です

扁額はありませんでした

神紋は「左三つ巴」です

本殿です

綺麗に彩色された彫刻が綺麗ですね

本殿後ろに小さなお社がならびます

此方は境内右手にある厳島神社です

亀が日向ぼっこをしていましたが、カメラを構えたら一斉に逃げられましたΣ(゚д゚lll)

此方は社殿左手にある浅間神社です。ちょっとした小山の上に鎮座しています。

浅間神社の下には稲荷神社、天満宮、琴平宮が並びます

境内社横の一角にあるのは「大師堂」です。

どうやら手子后神社所縁の聖人のようですが、案内文が掠れていて、詳しいことは分かりませんでした

御朱印は社務所で頂けます

 

今度は童子女の松原にも足を向けてみようかと思います