伊勢の旅、続きです!
前回も書いたとおり、旅路は三重県北部、桑名市に鎮座する多度大社に至りました
御祭神は本宮である多度神社に天津彦根命(あまつひこねのみこと)が鎮座し、別宮である一目連神社(いちもくれんじんじゃ)に、天津彦根命の御子神である天目一箇命(あまのまひとつのみこと)が鎮座し、本宮と別宮を併せて「多度両宮」とも称されています
多度大社は古くから伊勢神宮との関係が深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と唄われています、、、とこれは朝熊山でも同じ唄があるんですよね。どっちが先か、というのは分かりませんが、少なくとも昔から篤く進行を集めているということに変わりはありませんね
また、御祭神である天津彦根命が、天照大御神の御子神であることから、当社は「北伊勢大神宮」とも称されています
御由緒として、古来より神社の鎮座する多度山が神体山として仰がれていましたが、雄略天皇の御代(五世紀後半)に社殿が建てられたと伝えられています。七世紀後半には七番目に古い神宮寺が建立され、後には準国分寺としての扱いを受け、大寺院となっていきます。延喜式神名帳では、名神大社に記載され、「東海道六社」にも数えられます
しかし戦国時代になると織田信長と反目し、元亀二年(1571)の長島一揆の際に、神社とその周辺の寺院に兵火がかかり、社殿や摂末社、神宝始め、全てが灰燼に帰す憂き目に遭います。その為、御神体を美濃国赤坂山に御動座して戦火を避ける時期がありました
江戸時代になり、桑名藩初代藩主に徳川四天王として知られる本多忠勝が着任すると、当社復興に力を注ぎます再興されます
明治六年に県社、大正四年には国幣大社に列格し、平成八年に大社号の奉称が認められ、正式名称が「多度大社」となります
ちなみに多度大社とは、本宮、別宮、摂社、末社を総称して多度大社と呼ぶのだそうです
さて、神社です
社頭です
立派な石段です
石段横には多くの奉納酒樽
杉の葉で飾るのは何かの由来があるんでしょうか?初めて見ます
石段の横には土が剥き出しの斜面があります
これは南北朝の頃から続く「上げ馬神事」が行われる坂で、馬がこの坂を上がる具合でその年の豊凶を占う、というものです
上から見下ろすと、坂というよりも絶壁ですねΣ(・∀・;)
石段を登った正面には摂社「新宮社」です
これは御由緒で書いた美濃国への御動座から、再びこの地に戻った際に、まず御神体がお鎮まりになった社殿になります
明治十五年に建てられた本神楽殿です
二の鳥居を潜ります
神社は山裾から斜面に沿って建てられていますが、参道に並行して段差のない道が整備されています。今はこういうところにもバリアフリーが浸透しているんですね( ´ ▽ ` )ノ
途中の灯籠が集められた一角の一つには「切支丹灯籠」の名が
一体誰が奉納したのかは不明だということです
此方は当社に伝わる白馬伝説に因んだ白馬の納められた「白馬舎」です
更に進むと、途中に皇子社、招魂社が並びます
此方は摂社「美御前社(うつくしごぜんしゃ)」で、御祭神は天津彦根命の妹神である市杵島姫命です
丹塗りが鮮やかな社殿は、多度大社の中で唯一流造の屋根を持つ社殿でもあります
「御葺門(おぶきもん)」は、此処を境にしてご本殿の神域に入る事を意味しているそうです
「多度両宮」の神額が掛かっています
神橋を越えると本宮、別宮です
八月に行われるちょうちん祭りの骨組みが組まれていて、景観はちょっといまいちでした(=o=;)
神橋から見て左手が本宮になり、右手が別宮になります
本宮、多度神社です
現在の社殿は慶応三年(1867)造営のものになります
別宮、一目連神社です
多度神社の奥からは滝の姿を見ることができます
此方は神橋手前の末社、神明社です
参道途中には御手洗場があり、落葉川の清流を楽しめます
神楽殿と参集殿の間を抜けていくと、もう一つの摂社である「一拳社(ひとこぶししゃ)」があります
御祭神は一言主命です
上げ馬神事の行われる坂の前には神馬舎があります
神馬舎では神馬「錦山」号が出迎えてくれます
良いお顔です
御朱印は参集殿で頂けます
参拝後、次の目的地へと向かうため、鈴鹿市方面へ
次の目的地は鈴鹿市山本に鎮座する「椿大神社(つばきおかみやしろ)」です
御祭神は主祭神として猿田彦大神、相殿神として瓊々杵尊と栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと:瓊々杵尊の母神)、配祀神として天之鈿女命と木花咲耶姫命、前座に行満大明神が祀られています
当社は延喜式神名帳の式内小社で、伊勢国一宮の論社でもあります。また、猿田彦大本宮とも呼ばれ、全国の猿田彦大神を祀る神社の総本山でもあります。しかしこれには異論もあるようで、伊勢の旅その参で紹介した「猿田彦神社」が総本社であるという見方もあるそうです
御由緒としては、垂仁天皇二十七年(紀元前3年)に倭姫命に神託が下り、猿田彦大神御陵の前方にある「御船磐座」付近に社殿を創建して祀ったのが始まりとされています
仁徳天皇の御代、御霊夢により「椿」の字をもって社名とします。
天平十一年には勅願により吉備真備が遣わされ、大神御神面と獅子頭一頭を奉納させる。これに由来した獅子神による祈禱神事は千三百年間絶える事無く続けられ、獅子舞の宗家としても知られます
その後、伊勢國一宮や延喜式内社に列していきますが、天正十一年(1583)に織田信長の兵火にかかり、社殿や記録の殆どが消失する憂き目に遭います
天正十四年に社殿を再建、徳川の世になり本多忠勝により社殿諸施設が寄進され、再興を果たしていきます
明治四年に郷社、昭和二年に県社に列格します。さらに、昭和初期に「国幣大社」列格の示唆を受けますが、太平洋戦争勃発により中断してしまいます
さて、神社です
社頭です
入り口にはとても大きな樅の木(?)があり、根元に「庚龍神社(かのえりゅうじんじゃ)」があります
手水舎です
二見興玉神社でもそうでしたが、此方もお使いのカエルをフューチャーした楽し気な作りとなってます
境内は杉の巨木が立ち並んでいます
参道には前述の「御船磐座」があるのですが、肝心の写真が無いorz
「高山土公神陵」は主祭神である猿田彦大神の御陵とされています
拝殿です
拝殿横には鉄砲柱が奉納されています
椿大神社拝殿よりちょっと下った所に別宮である「椿岸神社(つばききしじんじゃ)」があり、延喜式内小社である「椿岸神社」の論社になります
御祭神は天之鈿女命を主祭神に、太玉命と天児屋根命を相殿に祀っています
朱塗が美しい社殿です
芸能上達の神様でもあり、境内には「扇塚(おおぎづか)」があります
椿岸神社横に「かなえ滝」があり、柄杓が置いてありますが、勢いが物凄く、水を汲むのも一苦労です(^_^;)
境内にはその他に延喜式内社である「県主神社」があるようでしたが、雨が降ってきてしまい、参拝は断念(=o=;)
また、社殿後方に広がる高山入道ヶ嶽には、当社の奥宮である磐座があるそうで、何時か登ってみたいですね
御朱印は社務所で頂けます
椿岸神社の御朱印も一緒に頂けます
また此方にはオリジナルのご朱印帳があります
さてさて伊勢の旅、残念ながらまだ続きます( ゚Д゚)y─┛~~と言う事で、今回は此処までですm(__)m