和歌山の神社巡り、二日目突入ですヽ(^o^)丿
疲れもあってぐっすり眠ったので、珍しく寝起きも良く、朝八時前には和歌山市内へ散策に向かいます(((((((((((っ・ω・)っ ブーン
まずは和歌山城!デカイ!!
中には入らず外だけ見てきたけど、勿体無かったかな(^_^;)
と言う事で、二日目一社目は和歌山市片岡町に鎮座する「刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)」のご紹介です。
御祭神は大伴氏の祖先神であり、神武東征に活躍した道臣命(みちおみのみこと)と、百済救済の武功で知られ、佐用姫伝説にもその名が出てくる大伴佐氐比古命(狭手彦:おおとものさでひこのみこと)の二柱を祀っています。
御由緒として、岡(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、吹上、芦原、新南地区)の産土神として、岡の宮の名で知られる神社です。延喜式神名帳では式内小社に列しています。
道臣命は岡の里の出身とされ、大伴佐氐比古命は百済救済の武功により道臣命の出身地である岡の里を授かったとされます。その後、大伴佐氐比古命から二十世の裔である大伴武望が、大伴氏の発祥であるこの地に祖神、祖霊を祀ったのが始まりとされています。里人はその神徳を仰ぎ、産土神として国主ノ神、大国主神と尊称し崇敬します。
大伴武望二十八世の孫である岡本信濃守武秀が岡本(現在の和歌山市)に城を築くと、代々城の氏神として崇敬していきます。しかし、南北朝期の動乱や度重なる騒乱の兵火に遭い、古文書や神宝悉く失い、社殿も荒廃していまします。
嘉吉年中(1441-1443)に氏子らにより再興され、国主神社(くずじんじゃ)と呼び崇敬されます。天正年中(1573-1593)には豊臣秀吉が和歌山城を築くにあたり本城鎮護の神とします。
文禄三年(1594)、本来の鎮座地である岡の里(現在地)に遷される。
徳川頼宣が紀州に入城すると、当社を崇敬し、社殿の修築と社宝を奉献します。以後の城主も代々崇敬していき、寛永年中から延宝年中にかけて大小の社殿を造営していきます。
後の江戸幕府八代将軍徳川吉宗が誕生した時には、厄年に生まれた子として、誕生と同時に捨てられました。この時に拾い親になったのが刺田比古神社の宮司でした。
拾い親とは、当時の風習で、厄年に生まれた子どもは捨て子にすれば丈夫に育つというもので、吉宗も誕生と同時に、和歌山城追廻門に捨てられ、これを刺田比古神社宮司岡本長諄が箕と箒で拾ってきたことから拾い親とされています。
吉宗は自分を拾った岡の宮に感謝し、産土神として崇敬し、紀州藩主になってから神殿を寄進。将軍になってからも二百国の朱印地、黄金造りの太刀、神馬などを献じ、国家安泰の祈願社としています。
明治六年には県社になりますが、昭和二十年七月九日の和歌山大空襲で社殿、宝物、記録の全てが消失してしまいます。その後、氏子らの敬神により現在の復興となります。
さて、神社です。
鎮座地は和歌山城の南、住宅街の中になります。
駐車は神社境内の中に停められるのかもしれませんが、鳥居自体が小さいので、小型車以外は難しいかもしれません。僕は和歌山城の有料駐車場に停めて参拝しました。
社頭です。
一の鳥居です。
社号標です。
鳥居を抜けた境内は、市街の中心部とは思えないほど緑の中にありますね(^^)
神馬舎は徳川吉宗公のご愛馬だそうです。
稲荷社です。
宇須売社と金比羅社です。
手水舎です。
社殿です。
社殿前の狛犬さんは新しいものですね。
拝殿です。
桃色の拝殿は初めて見ました(^^)
扁額です。
社殿周りには神紋が見つけられませんでしたが、幟に「割菱」紋が描かれています。
本殿です。
社殿向かって左側には多くの境内社があります。
摂社の八幡社と氷川社です。
末社の楠龍発達社です。
御祭神は楠龍発達大神は、御神木の楠の木になります。
立派な楠の木、一時期呼ばれた「国主神社(くずじんじゃ)」の名前は、もしかしたらこの御神木の名前から来ているんですかね?
大国社です。
祓戸社です。
天満社です。
春日社です。
弁財天社です。
稲荷社です。
小林稲荷社です。
御朱印は社務所でもらえます。
また、此方にはオリジナルの御朱印帳があります。
渋いですねヽ(^o^)丿
にこやかな宮司さんから色々とお話を聞くことが出来、楽しい参拝になりました。
刺田比古神社の参拝を終え、次の神社、和歌山市和歌浦西に鎮座する「和歌浦天満宮(わかうらてんまんぐう)」のご紹介です。
御祭神は菅原道真公になります。
御由緒として、菅原道真公が太宰府へ赴く途中、風波を避けて和歌浦に立ち寄られます。この時、地元の漁民は艫綱(ともづな)を巻いて座を作り、お迎えしたとのことです。風波が静まり、船出の時になると、二首の歌を詠まれ、大宰府に旅立たれたとのことです。
“老いを積む身は浮き船に誘われて遠ざかり行く和歌の浦波”
“見ざりつるいにしえまでも悔しきは和歌吹上の浦の曙”
康保年間(964-968)、橘直幹(たちばなのなおもと)が和歌浦を訪れ、道真公を追慕して御神霊を勧請したのが始まりとされています。
その後、慶長五年(1600)に紀州領主となった浅野幸長が社殿を慶長九年(1604)頃から造営を始め、慶長十一年(1606)に完成します。
さて、神社です。
鎮座地は後述する紀州東照宮や県立武道館がある一角になります。
駐車場は一の鳥居前にあります。
社頭です。
一の鳥居です。
社号標です。
昔の社号標ですかね?
狛牛さん?
と言うより、牛の胸像とでも言うんですかね??
正面参道の石段はかなり急で、お隣には少し緩やかな石段があります。
石段上には立派な楼門ですね(^^)
慶長十年(1605)の創建で、重要文化財になります。
楼門に至った所で振り向くと、和歌浦湾を望む絶景ですねヽ(^o^)丿
楼門裏側です。
手水舎に撫牛さんがいますね、面白い(^^)
山を削ったという境内は、ホントに山が迫っています。
拝殿はなく、唐門ですね。
神紋は「梅鉢」紋に、「右三つ巴」紋もそうなのかな?
本殿です。
この本殿、一目見た瞬間にびっくりな絢爛さ(^O^)
御由緒で前述した、浅野幸長公が慶長十一年(1606)に再興したものだそうですが、桃山建築の研究に欠かせない貴重な社殿だそうです。現在は国指定重要文化財です。
社殿を建てたのは紀州根来出身の塀内吉政(へいのうちよしまさ)、政信親子ですが、政信は寛永九年(1632)、江戸幕府の作事方大棟梁に就任しています。つまり、全国の大工の頂点に立ったということですΣ(゚Д゚)
確かにこの本殿を見ると納得してしまいます。
ちなみに神社の方に伺うと、本殿の真後ろにも扉があるそうですが、これは珍しく、さらに何の理由で後ろに扉を設けたかは不明だそうです。
社殿右手には末社が多くあります。
此方は稲荷社です。
お隣には住吉神社です。
そのまたお隣には、ずらりと並ぶ境内社。
右手より三宝竃神社、天穂日神社、産霊神社、八幡神社、春日神社、柿本神社、香取神社鹿島神社、神集神社、白太夫神社になります。
向かい側には白藤龍大神を祀る社です。
此方には覆い屋で覆われた末社があります。
天照皇大神宮、豊受大神宮は慶長頃の建立で、重要文化財です。
とても色鮮やかな装飾です。
此方の多賀神社も慶長頃の建立で、重要文化財になります。
此方も鮮やかな装飾に包まれています(^^)
白山比賣神社です。
社殿左側に「筆塚」です。
白鳥神社です。
狛犬さんです。
小さいですがユーモラスな表情(・∀・)
御朱印は社務所で頂けます。
重要文化財の本殿、凄い良い物が見れましたし、楼門からの眺めも中々のロケーションです(^O^)
次にご紹介するのは和歌山市和歌浦西に鎮座する「紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう)」のご紹介です。
御祭神は徳川幕府を開いた東照大神、徳川家康公と、紀州藩初代藩主である南龍大神、徳川頼宣公です。
御由緒として、紀州藩初代藩主である徳川頼宣公が南海道の総鎮護として元和七年(1621)に創建されます。
左甚五郎の彫刻や狩野、土佐両派の絵画などで装飾された社殿は、関西日光と称されます。
古くから「権現さん」の愛称で親しまれ、「和歌の浦には名所がござる、一に権現」とうたわれたそうです。ちなみに、「あしべ節」という民謡の歌詞だとか。
さて、神社です。
神社は前述した和歌浦天満宮のそば、国道42号線から海岸通に入ってその道沿いに大きな看板と鳥居があるので、そう迷わないかと思います。
駐車場は有料で、一時間までで300円になります。
道路に面した一の鳥居です。
社号標です。
二の鳥居です。
流石、関西日光と呼ばれる神社、石畳も見事です。
立ち並ぶ石灯籠は家臣団が寄進したものだとか。
ものすごく立派な石段は108段、侍坂と呼ばれています。
此処も急ですが、この石段を例祭の時には御輿を担いで駆け下りるとかΣ(゚Д゚)
楼門は重要文化財です。
楼門を潜ると綺麗な境内が目に飛び込んできます。
金灯籠です。
先ほどの和歌浦天満宮もそうでしたが、此方も拝殿はなく唐門です。
ちなみに唐門と東西に広がる瑞垣、奥の権現造りの本殿も国の重要文化財です。
神紋は当然といえば当然ですが、葵の御紋ですね(^^)
本殿は屋根しか見えませんが、拝観料500円で見学することが出来ます。
当代一の職人達が造った本殿、素晴らしい物でした(^O^)/
これは何でしょう?お猿さんがいっぱい(・∀・)
侍坂下には弁財天社です。
参道途中の稲荷神社です。
御朱印は社務所で頂けます。
また此方にはオリジナルの御朱印帳があります。
これでもかというほどの葵の御紋です!
さてさて、取り敢えず今回のご紹介はここまでです(・∀・)
二日目はこれで3分の1、長丁場ですなぁ(^_^;)
懲りずにお付き合いいただければ幸いですm(__)m