☆☆2016年2月29日、地図と御朱印帳を追記しました☆☆
御祭神は「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)」になります御由緒として、創建は社殿によると白雉二年(651)と伝わっています
その後、近世までの沿革は不詳ですが、寛保三年(1743)に、笠間城主井上正賢により社地社殿が拡張され、延享四年(1747)に牧野貞通が城主となると祈願所と定められ、境内地・祭器具などの寄進が為されるなど、歴代藩主からの篤い崇敬を受けていきます。また、当時の藩主牧野家の下屋敷のあった日本橋浜町には、藩主が当社の御分霊を受けて建立された、笠間稲荷東京別社があります
当社鎮座地は、昔は胡桃の密林があり、「胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)」とも呼ばれていました。また、江戸時代には笠間藩主の一族に門三郎という人物があり、当社を篤く崇敬し、利根川流域の人々に功徳を施した事から、「お稲荷さんの門三郎」と慕われ、当社も「紋三郎稲荷」と呼ばれることもあったそうです。落語の「紋三郎稲荷」も当社、というか笠間藩の家臣が主役のお話で、とてもおもしろい話です
旧社格は村社で、現在は別表神社になっています
因みに茨城県で神社というと真っ先に名前の上がる神社の一つで、茨城県内の初詣の参拝者数も一番なんだそうです
そしてよく言われる「日本三大稲荷」の一つです、が、これは地域や状況により様々で、必ずしも三大稲荷というわけではないようです
さて、神社です
当社は笠間市中心部に鎮座しています
先ほど茨城県を中心に、関東近辺でも著名な神社であると書いておきながら、僕は平成二十三年まで参拝した事がありませんでした(´Д` )駄目じゃん…
それはさておき、今回の写真は平成二十三年、二十四年、二十五年に撮ったものになります
おそらく以前は一の鳥居と二の鳥居があったと思われる基礎が残ります
今は一の鳥居の跡には注連縄が渡されています(平成二十五年四月参拝時)
社号標です
綺麗に伸びる参道の脇には奉納された数多くの狛狐が参拝者を迎えます
重層入母屋造の楼門は「萬世泰平門」と言い、昭和三十六年竣工のものになります
此方は楼門前の狛狐です
楼門を潜った先の境内です
拝殿向かって右手の二株の藤樹は樹齢四百年、茨城県の天然記念物になります。花が咲いている時にはさぞかし綺麗なんでしょうね(^o^)
拝殿です
拝殿は昭和三十五年竣工のものになります
神紋は「包み抱き稲」と「宝珠」でしょうかね
扁額です
拝殿や楼門から続く回廊には奉納された多くの絵馬が掲げられ、昔から人々の当社への崇敬の深さが窺えます
拝殿の横には四神と思われる彫刻もありました
本殿です
本殿は銅瓦葺総欅の権現造で、江戸時代末期の安政・万延年間(1854-60)の建築になります。昭和六十三年、国の重要文化財に指定されています
彫刻も見事です
後藤縫之助の作「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」、弥勒寺音八と諸貫万五郎の作「蘭亭曲水の図」等々あるそうです
確かに見ていてテンション上がってきます(≧∇≦)
本殿の裏側の此方は「狐塚」で、人々の信仰の形を山に模した「お塚信仰」と呼ばれるものだそうです
う〜ん、壮観ですねぇ
本殿横手の入り口の狛狐、中々迫力があります
一方、本殿裏手の入り口の狛狐はちょっとユーモラスなお顔立ち
当たり前ですがこの他にもお狐さんが其処彼処にいましたよ( ̄▽ ̄)
聖徳殿は聖徳太子が祀られているほか、大黒天、事比羅社が合殿にて祀られています
本殿裏手の末社で、月読神社・白山神社・菅原神社・粟島神社・山倉神社になります
此方は「総門」もしくは「東門」と呼ばれ、文化十三年の再建です
「毛綱」が奉納されています
この門も緻密に彫刻が施されています
所狭しと掲げられた御芳名額を見ていると、
可愛らしいダルマが( ´ ▽ ` )ノダルマ屋さんなのかな?
ある参拝時にはお狐さんではなく何匹もの猫が集まっていました
ちょっと横道にそれますが、当社すぐそばのこちらは「大石邸跡」あの忠臣蔵で有名な大石内蔵助の曽祖父と祖父が住んでいた屋敷跡です。というのも、大石の主君である浅野家は、赤穂藩に国替えする前には笠間藩主であり、現在の笠間市街地の基礎を作ったのもこの時の藩主、浅野長直だそうで
毎年忠臣蔵を見ていても、自分の家の近くに忠臣蔵関連の遺構があるとは思わなかったです
御朱印は社務所で頂けます
また、当社のオリジナルではありませんが、「茨城十二社詣」という御朱印帳を頂けます
当社周辺には先ほど書いた大石邸跡だけでなく、笠間城跡等、史跡や焼き物に関連したものも多くあります。ゆっくり巡ってもらうと楽しいですよ(^O^)/
☆2016年2月29日追記分です☆
いつの間にかにオリジナルの御朱印帳が出来たそうで、頂いてきました(^∇^)