御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)です
御由緒として、茨城縣神社誌等を参考にすると、文明十年(1478)九月、領主である大掾氏が武田郷化蘇沼に武運長久の守護神として創祀します
天文三年(1534)、武田城主武田民部大輔通信公により荘厳な社殿が再建されます
武田郷九ヶ村の郷社と崇敬され、正一位を賜ります
天明八年(1788)11月10日、野火により全社屋焼失
文化年代(1804~1817)、領主松平大学頭頼慎公が郷民に喜捨令を出し、本社の再建復興がなされます
明治十二年五月、村社に列格します
さて、神社です⛩
鎮座地は大きな道路に面しています。駐車場は神社境内に停められる場所があります。今回はそちらに停めさせて頂きました。
一の鳥居です
茨城百景の石碑です
社頭です
二の鳥居になりますかね
手水舎です
駒狐です
拝殿です
扁額です
本殿です
神紋は「守山三つ葵(もりやまみつあおい)」と呼ばれ、陸奥守山藩松平氏、常陸宍戸藩松平氏、常陸府中藩松平氏の家紋で使用されています。当時の陸奥守山藩主松平大学頭頼慎公が社殿再建の折に紋章を寄進し、社紋として定めています
ちなみに茨城縣神社誌に神紋は「菱」となっていますが、どこにも見当たりませんでした💦武田氏所縁の神社でもあり、かつては菱の神紋もあったのでしょう
この御本社真裏に白狐の穴があり、子狐のお産の時には「おぼたて」といって油揚げや赤飯をお供えしたという昔話が伝わります
神様のお使いと、きっと往時には盛大に祝ったのでしょうね😄
こちらの境内末社は天満宮です
金毘羅大権現です
此方は社殿右手にある松尾芭蕉と洞海舎涼谷の句碑です
洞海舎涼谷は本名を河野新太郎と言い、行方郡帆津倉村で生まれ、本業は醬油醸造業を営んでいた俳人のようです。ほかの方のブログなどで当社の再建を涼谷が行ったとの記事がありましたが、結局自分には調べきれませんでした😓
「この道やゆく人なしに秋のくれ 翁(芭蕉)」
「名月も昨日になりぬ峰の松 洞海舎涼谷」
洞海舎涼谷社中が安政五年(1858)に建立した句碑で、尊敬する芭蕉と地元の指導者であった涼谷の句を並べて碑に刻んだものです。西日がすごくて、読めませんね😭
立派なモミの木は行方市指定天然記念物で、幹回り約4メートル、樹高訳16メートル、樹齢は370年以上とされています🌲
境内北側には立派な土俵があります❗❗❗
毎年8月25日の例祭で豊作を祈願する奉納相撲が行われ、神社の別名もこの事から「関取稲荷」の別名もあるほどです
境内北側には芭蕉と山居由之の句碑があります
右側の句碑「永き日も囀りたらぬひばり哉 芭蕉」
左側の句碑「冬牡丹水も薪も裏の山 山居由之」
境内を更に北側へ進んでいくと奥宮があります
此方が化蘇沼稲荷神社奥宮です
訪問時は水量も少ないですが、此処が化蘇沼になるのだと思います
化蘇沼の語源は境内の「正一位化蘇沼稲荷神社々誌」を引用すると、「古来この地方を芸津郷と言い聖地は郷内にあり。神社裏手に沼ありここに奥の院鎮座す。この沼より御神体出現し化神蘇生の由を以て化蘇沼と稱し神宿る聖なる水分けの地として郷人これを自然体信仰として崇め祀る」とあります。古来より貴重な水源として利用されてきたのでしょう
境内の一角に「藝都里(きつのさと)の寸津毗古(きつひこ)・寸津毗売(きつひめ)」の像があります。寸津毗古と寸津毗売は、常陸國風土記によると藝都の里を治めていた国栖の長です。国栖とは常陸國茨城郡に住んでいた先住民で、つちくも、やつかはぎとも呼ばれました。常陸國風土記ではその他にも野の佐伯、山の佐伯と呼ばれる人々も出てきますが、いずれにしても当時の大和政権に従わなかった人々なのでしょう
風土記では景行天皇の命を受けたヤマトタケルノミコトが、東北地方平定後に藝都里を治めるために訪れます。そして、命令に従わなかった寸津毗古は剣の一太刀で討たれてしまいます。残された寸津毗売とその一族は白旗を掲げて降参し、ヤマトタケルノミコトを迎え入れ、許されます。その後、ヤマトタケルノミコト小抜野(おぬきの)の仮宮に向かうと、寸津毗売は姉妹とともについていき、真心を込めて奉仕を続けます。ヤマトタケルノミコトはその姿を喜んだことから、その野を「うるはしの小野」と呼ぶようになったそうです
以前に紹介した同じ行方市の繁昌に鎮座する「鹿嶋神社」の宮司さんが兼務しておられるので、御朱印はそちらで授与して頂けました
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