茨城県鹿嶋市宮中に鎮座する鹿島神宮(かしまじんぐう)のご紹介です。
※平成二十六年一月十三日、ちょこっとだけ追記しました。追記は一番下になりますm(_ _)m
鹿島神宮はその名の通り、全国にある鹿島神社の総本宮です。また、延喜式神名帳に記載される式内社で、名神大社・月次新嘗社にも列しています。一宮成立後には常陸国の一宮となり、明治時代の旧社格では官幣大社に列し、勅祭社に定められます。そして太平洋戦争終結後には別表神社に定められています。う〜ん、こう書くと肩書きだけで凄いことになってますねΣ(・□・;)
御祭神は武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)で、この神様は利根川を挟んで南に鎮座する香取神宮の御祭神、経津主大神と共に天照大御神の命を受け出雲の国に降臨し、大国主神と交渉して国譲りを成就させました。その後、全国を巡り、荒ぶる神々を平定し、東国開発の礎を築いたとされています。
また、神武天皇の東征の折、窮地に陥った天皇を救ったのが、武甕槌大神が下界に下ろした「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」の神威でした。その恩恵に感謝した天皇が、後に社殿を建立したとの事です。
国譲りや国土平定という神話が伝わるように、武甕槌大神は武神として武家政権の歴代将軍や武芸者から崇敬されてきました。現代でも武術の道場に「鹿島大明神」「香取大明神」の掛軸が掛けられていたりします。
創建は上述の通り、神武天皇が即位した年に大神を鹿島の地に勅祭したのが始まりとされ、皇紀元年(紀元前660)です。
因みに『神宮』という表記の神社は現在、比較的大きな神社で見かけることがあります。しかし、江戸時代までは『神宮』を社号とする神社は伊勢神宮、香取神宮、そして鹿島神宮の三つだけだったそうです。そのことからもこの鹿島神宮の重要性が大きかったことが窺えます。
またここ鹿島神宮は、藤原氏とも深い関係のある神社です。藤原氏と言えば平安時代には藤原道長を始めとする摂関政治を行い栄華を誇った一族ですが、この藤原氏の祖である中臣氏の氏神が武甕槌大神であり、大化の改新で中大兄皇子を助け蘇我氏を破る中臣鎌足は、鹿島の生まれなのだそうです。時代は下り、奈良の平城京に遷都した後、藤原不比等は春日の御蓋山(みかさやま)に氏神である武甕槌大神を遷して祀り、山の麓に春日大社を造営したそうです。
どうやらこの藤原氏の氏神という事が、太古の昔より鹿島神宮が朝廷に重んじられる理由の一つなのでしょうね
さて神社です(今回は平成二十四年九月と平成十九年四月の写真を使用しています)
自分が今住んでいる鉾田市は、昔々は鹿島郡旭村という名前で、鹿嶋市も鹿島郡鹿島町であり同じ鹿島郡の中です。距離こそ自宅からあるものの、小学校の時に写生会に行ったり、高校時代には弓道大会に参加したり、その後もちょこちょこと参拝に行っている神社です。今回は震災後始めての参拝で、五年ぶりの参拝でした
元々鹿島が神宮を中心に形成されており、車でも電車でも、迷う事なく辿り着ける場所にあります。と言うかこれでもかというほど看板があるので、方向音痴には助かります(^_^;)
神社前は門前町の様に綺麗に整備されてます。
かつてはここには白く大きな鹿島鳥居がありましたが、東日本大震災で倒壊してしまいました
此方がかつての大鳥居です
新しい鳥居は平成二十六年に建立されるようです
社号標です
参道です。多くの奉納常夜燈が並びます。年代も江戸時代から平成まで様々です
楼門です。朱色が鮮やかですね
創建は寛永十九年(1642)、初代水戸藩主徳川頼房公による造営で、国の重要文化財です。また、熊本の阿蘇神社、福岡の筥崎八幡宮とともに、日本三大楼門として知られているそうです。
扁額です。日露戦争で連合艦隊を率いた東郷平八郎元帥の書だそうです!
楼門をくぐると随神像のある裏側(何という名称になるんでしょうね?)には大きな御幣と切り株の彫刻?があります
境内です
奥参道側からみた境内です
神紋は「左三つ巴」です
他に桐紋も見かけました
拝殿です。鹿島神宮は元々大和朝廷に従わない東北地方の勢力の前線基地という側面があり、普通の神社が南面もしくは東面しているのに対し、社殿が北面しているという造りです。これは多くの鹿島神社でも同様の特徴を有しているそうです。表参道が西から東へ走り、楼門を抜けて右手に拝殿が北面しているので、気づかず神社の奥まで行ってしまう方もいるとかいないとか…
拝殿は元和五年(1619)、江戸幕府二代将軍徳川秀忠公の造営で、重要文化財です。
全体的に落ち着いた印象ですが、流石将軍様の奉建、蟇股の彫刻などとても綺麗です
拝殿前には石の灯篭以外に、金属製の灯篭もあります
拝殿の裏側には玉串を捧げる為の幣殿が続き、更に後方には石敷きの「石の間」と呼ばれる渡り廊下が続きます。そこから本殿に接続するようです。
本殿です。現在は震災被害の修理の為に覆いが掛けられて中はうかがえませんでした(>_<)
此方は平成十九年参拝時の写真です。極彩色が綺麗でした。早くまた見たいものですね
本殿の後ろにはご神木が聳え、その後ろに「鏡石」と呼ばれる石があるそうです。ご神木は本殿後方から顔をのぞかせているのがそうです。
石の間、幣殿、本殿ともに拝殿と同じく元和五年、徳川秀忠公の創建です。本殿はかつては伊勢神宮のように二十年毎の造営をしていたそうです
此方は仮殿です。本殿修理の際のに一時的に神霊を仮安置する為のもので、権殿と呼ばれることもあります。何度か位置を変えており、現在は参道を挟み社殿と向き合うように南面しています。当初は 拝殿の左前方にあり西面していたようです。
参道は更に東進していきます。此処から奥宮や要石に続きます。
旧東神門跡です。
奥参道では石畳が終わり、周囲は樹叢になり、雰囲気が一変します。森林浴を楽しみながら奥へと進みます。
この奥参道では、毎年流鏑馬神事が行われるそうです
写真は平成十九年の流鏑馬神事前日の奥参道の様子です
鹿園です。神様の使いとして三十数頭の日本鹿が飼われています。
国譲りを命じた天照大御神の使いが鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)であることに由来して、鹿島神宮では神の使いとして鹿が飼われているようです。また、鹿島神宮周辺の森には多くの鹿が生息していたんだそうです!茨城に野生の鹿が?!ちょっとびっくりですΣ(・□・;)
もともと鹿島は「香島」と書いていたのが養老七年(723)頃から鹿島と書かれるようになります。これは鹿が神使であることに由来するそうです。
以前はフェンス越しのすぐそばで鹿と戯れることができましたが、現在はフェンスから更に距離を取り柵が設けられていました。 なんかあったんでしょうか?
此方が現在の鹿園の様子です↓
鹿との距離が開いてしまい、何か寂しいですねヽ(´o`;
ちなみに鹿島といえば鹿島アントラーズ。このアントラーは英語で鹿の枝角の事を言うそうですよ
鹿園のそばの「さざれ石」です。此方が平成十九年の佇まい
そしてこっちが今回参拝の様子。何か、パワーアップしてます
こちらは「鎌足桜」です。前述したように、中臣鎌足出生の逸話が伝わるものの様です。季節ではないので、花も葉っぱもありませんでした(´・_・`)
参道は続きます
奥宮です
御祭神は武甕槌大神の荒御魂です
社殿は元々徳川家康公が本殿として慶長十年(1605)に奉納したものを、元和五年に秀忠公の社殿奉健に際し、現在地へ引移して奥宮社殿になったそうです
本殿の華やかさに比べると、此方は重厚さが感じられます
御百度標です
奥宮から道が二股に別れ、左手側に御手洗池、右手側に要石へと道が続きます
御手洗は古くからの禊の場で、昔はここで参拝者も神職も身を清めてから神社へ向かったそうです。元々は参道の起点がこの御手洗からだったそうです
水は一日400㎘湧き出すそうで、何人もの人がお持ち帰りしてました
綺麗に澄んだ水ですね
桜の木でしょうか、物凄い伸び方をしています
此処は御手洗公園です。こちらに近づくと、どこからともなく笛の音色が聞こえてました。てっきり神社側で音楽を流してるのだと思っていたら、公園奥のベンチで、お爺さんが練習をなさっていたようです。横笛だから竜笛なのかな?とても心地よい音色でした
公園の終わりにも、以前は大鳥居がありましたが、現在は基礎があるだけです。
此方は在りし日の大鳥居です
御手洗すぐそばには境内社の大黒社があり参拝しようとしたら…
でた!大雀蜂!!しかも向かってくるΣ(゚д゚lll)
名残惜しいですが、望遠で写真を撮ってすぐ離れました…
奥宮まで戻って今度は要石方面へと向かいます
途中にある「大鯰の碑」です
要石です。何か、以前と印象が違うなと思ったら、鳥居以下を新しくしたのですね
こちらが以前の写真です
日本では昔から「地震・雷・火事・親父」と、恐ろしいものを順に上げていました。中でも地震は本当に恐ろしいものだと、自分も身を持って体感した一人です。この要石は、昔から地震を起こす大鯰を抑える役目を負っていると伝わり、往古より様々な人が此処に祈りを捧げたのでしょうね
此処には松尾芭蕉や小林一茶の句が残されています
『枯れ枝に 鴉(あ)のとまりけり 穐(あき)の暮』松尾芭蕉
『大地震(おおなゑ)に びくともせぬや 松の花』小林一茶
来た道を戻り、社殿のある場所から北上します
途中に末社の御厨社と祖霊社があります
此方は弓道場です。ここまできたのは高校生以来なので十四年ぶり!でした
懐かしいですね。ただ、此処にかなりの人が集まり、実際に弓を引く際にも、いつもの道場の半分ぐらいの狭さの中、犇めき合って弓を引いていた記憶があります
と、実際に引いている方がいたので邪魔にならないようにしばし鑑賞して思い出に浸っていました
また弓引きたいなぁ( ̄▽ ̄)いろいろ高いけど…
鹿島神宮は数多くの境内社があります。結局確認出来たのは参拝ルートにあるものだけですが、ご紹介です
参道を入ってすぐ右手側にある稲荷社です。眼光鋭いお狐様が控えます
此方は摂社の沼尾神社、坂戸神社の遥拝場と、末社の熊野社、須賀社、津東西社、祝詞社です
奥参道途中にある熱田社
拝殿の目前にある高房社です
時間のある時にその他の境内、境外社も参拝して見たいものです
一通りの参拝を終え、御朱印をいただきに社務所へ
御朱印帖を預け、実は一度も行った事のない宝物館にも足を向けて見ました。中には平安から鎌倉期の狛犬や、源頼朝伝来の鞍などがあります。けど、一番の見所は茨城県唯一の国宝でもある、直刀でしょう
名称は金銅黒漆平文拵附刀唐櫃で、日本最古最大の直刀です。制作年代は約1300年前、鹿島神宮の神山の砂鉄で作ったものと言われています。前述した韴霊剣の名も伝わっているそうです
直刀の前には原寸大の模造刀もありますが、2m近い刀身を扱える神様は大きかったのでしょうね
歴史とか好きな方には一見の価値はあると思いますよo(^▽^)o
で、此方が頂いた御朱印です
こっちは以前に頂いたものです
また此方にはオリジナルの御朱印帖があります
楼門が勇壮に描かれています
久々の参拝に随分とテンション高く参拝してました。大鳥居や、本殿の修理が早く終わって、また以前の鹿島神宮が見れるといいですねヾ(@⌒ー⌒@)ノ
ここから追記です
平成二十六年一月十三日、年も明けたので今年初の鹿島詣に行きました( ´ ▽ ` )ノ
で、実は平成二十五年六月に、鹿嶋市大船津の北浦河畔に、鹿島神宮の一の鳥居が建立されていたのです∑(゚Д゚)最近まで知りませんでしたorz
此方が一の鳥居です
水上に建つ木製の鳥居としては、広島の厳島神社の鳥居を超え、日本一だそうですo(^▽^)o
夕日と鳥居、う〜ん、もっと写真の腕があればなぁ
対岸から見た一の鳥居です
まだまだ正月明けて日も浅く、境内はごった返しています
何処も人だらけです(⌒-⌒; )
さて、今回の参拝の目的はお守りを新しく頂くことだったのですが…
何と、奥宮の御朱印が頂けるとのことで、早速頂きました(⌒▽⌒)
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