2012年6月28日木曜日

鴨大神御子神主玉神社(桜川市) その②

先日の紹介の通り、今回は鴨大神御子神主玉神社のご紹介、後編です!

こちらの神社は、通称「鴨神社」と呼ばれます。

延喜式内小社、新治郡三座の一として古い歴史を持ち、佐竹氏、足利氏、宍戸氏などの崇敬を集め、特に佐竹義重は永禄十二年(1569)八月社殿修営をし、子の義宣の名弘め式を行うなど、佐竹氏所縁の神社としての側面を持ちます。

 


神社は周囲が田んぼの中、こんもりとした山の中に鎮座しています。

神社入口です。当社には鳥居がありません。その代わりに榊と檜の神門が参拝者を出迎えます。

鳥居がないのには伝承があり、かつて源頼義が勅命で奥羽の反乱の鎮圧に向かう際、当社に参拝、大願祈願、戦勝祈願を行いました。その後、奥羽平定の帰路に当社の社殿を修営しましたが、鳥居は新造しなかった為、以後鳥居のない神社となったそうです。

と言うか、ここで書いていて気づきましたが、式内社に行くと源頼義とのエンカウント率が高いですね( ´ ▽ ` )ノこういう歴史の偉人の道筋を調べて見るのも面白そうですね

榊と檜の神門を抜け階段を登ると広い境内が目に入ります。鬱蒼とした木々に囲まれたそこは、元々人気の少ない周囲の雰囲気もあいまって、軽く別世界に来たのかなと感じてしまいます。

拝殿です。

扁額です

神紋は佐竹氏所縁であり、佐竹氏の家紋である「日の丸五本骨扇」と、「左三つ巴」です。

鰹木にも三つ巴紋が見られます

その他に、拝殿の懸魚には不思議な形の巴紋が描かれていますね。

本殿です。戦国大名の手で修営されたこともあるからか、何だか重厚な、ドッシリとした印象を感じさせます。

本殿の神紋にも「五本骨扇」がありますが、こちらには日の丸がありませんね

本殿の脇障子には大幣の彫刻がありました。派手な彫刻はたびたび見かけますが、大幣の彫刻は初めて見ました

件の摂社である「日吉大社」と「鹿島神社」です。

末社で鹿島神社なら茨城県の神社には数多有りますが、摂社で鹿島神社何ですよね。やっぱり「武甕槌命」と言う名前が気になります(^_^)

当社は近くの式内社、磯部稲村神社の宮司さんが兼務しておられて、御朱印はそこで頂く事が出来ましたo(^▽^)o

主玉神の事は、またじっくりと思いを巡らせてみようと思います( ̄▽ ̄)今回は取り留めない考えで終わってしまったので^^;

って言うか仕事しろよ、お主(´Д` )

 

2012年6月25日月曜日

鴨大神御子神主玉神社(桜川市) その①

茨城県桜川市加茂部に鎮座する鴨大神御子神主玉神社(かものおおかみのみこかみぬしたまじんじゃ)です...長い名前ですね^_^;

創建は社伝によると神武天皇八年(BC652)、物凄い古いですねぇ!延喜式内社の一座で、常陸国においては鹿島神宮、吉田神社に次ぐ大社であったそうです。何にしても他の場所に先立ち、逸早く信仰の対象になっていたということなのでしょう

御祭神は神社名が示すように鴨大神の御子神である主玉神で、太田田根子命と別雷神を配祀しています。
で、この主玉神という神様ですが、よく分からない神様ですね。鴨大神は賀茂大神であり、京都の上賀茂神社の御祭神である別雷神ということなのでしょう。すると、御子神である主玉神は別雷神の子どもであるということになりますかね?
しかし、当社は古くには上中下の三社に分かれていたらしく、上社(当社)に別雷神、中社に皇子尊、下社に皇祖尊が祀られていたとのことです。つまり別雷神自身が御子神である主玉神、ということになるのでしょうか?
主玉神がどなたか?はさておいて、境内には摂社として大山咋命を祀る日吉大社が鎮座して、配祀しているのが別雷神なので、上賀茂神社からの勧請が推測されますが、もう一柱の太田田根子命が気になります。
この神様は、崇神天皇の時代に疫病が流行った折、大和の国三輪山の大物主大神が「意富多多泥古(オオタタネコ)をもって私を祀らせたならば、神のたたりはおさまる」と告げ、天皇が意富多多泥古を神主として三輪山に意富美和之大神(おおみわのおおかみ)を祀らせた、という伝承を持つ神様です。大物主は大国主命の事であり、その子は事代主命です。事代主命は、奈良県にある鴨都波神社に祀られ、この神社から全国の鴨、賀茂、加茂と名のつく神社の由来になったこともあり、事代主命が賀茂大神と呼ばれることもあるそうです。しかも、鴨都波神社を創建したのは太田田根子命の孫であるそうです・・・あれ、つながった?そう言えば、日吉大社ともう一つある摂社は鹿島神社でした。祭神は言わずと知れた「武甕槌命」ですが、太田田根子命のお父さんの名前が、同姓同名の武甕槌命なんですよね。う~ん、どういうこと?
よくよく考えると、地名が「加茂部」なのに、神社名は「鴨」なんですよね。となると、上賀茂からの勧請ではないのでしょうか?
ここで鴨大神を事代主命にすると、御子神が別雷神ではなくなってしまいます。じゃあ、事代主命の子どもはというと、神武天皇の皇后になった「媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)」と神武天皇の子どもの綏靖天皇の皇后になった「五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)」がいます。
ここでは天孫と国津神が云々という難しい話は置いておきます。知恵熱が出てしまうので(´・ω・`)

ここで天皇が出てきましたが、当社がはるか昔には三社に分かれていてと書きました。その内の皇祖尊とは、辞書によると「天子の始祖。日本では天照大御神や神武天皇など、天皇の先祖」とあります。なんか神武天皇と繋がりました。因みに皇子尊は「みこのみこと」で、「皇太子、皇子の尊称」とのことです。皇子尊は綏靖天皇に繋がりますかね。つまり当社は大国主大神、事代主命、神武天皇とその子の綏靖天皇、其々の皇后、そして大物主を祀る太田田根子命をも祀る神社であり、主玉神は事代主命の二人の娘ではないか、というのはどうでしょうか?「玉」という字には美しい女性という意味もあるそうですよo(^▽^)o牽強付会ですね(´Д` )

さて、ここでもう一つ、カモとつく上で外せない神社があります。高鴨神社です。全国のカモ(鴨、加茂、賀茂)神社の総本山です。こちらの御祭神は阿治須岐高日子根命(アジスキタカヒコネノミコト)で、別名が「迦毛之大御神(かものおおみかみ)」です。

高日子根命の神名のスキは鋤の事で、農業の神様であると考えられています。同時に、古事記では天地を行き来したりする様子が描かれ、出雲国風土記では幼い時の泣き叫ぶ声が非常に大きい様子や、静かにさせるために高屋を作りはしごを掛け、それを登り降りさせる様子が描かれて、雷を表したものであるとされています。ここで別雷神との相似が見られます。また、その子どもである多伎都比古命(タキツヒコノミコト)は雨の神で、雷との関連は深い事が考えられます。となると、ここで言う鴨大神は阿治須岐高日子根命であり、御子神たる主玉神は多伎都比古命になるんでしょうか。因みに阿治須岐高日子根命の父神は大国主命であり、ここで太田田根子命が繋がってきます。
そう言えば大和の鴨社を祀る鴨氏は、出雲から大和へやってきたという説があるそうですね。案外、その一部の人達が更に東に流れてきて当社を創建したのかもしれません。先日紹介した「稻田神社」も当社の近くにありますが、御祭神の櫛稲田姫とそれにまつわる八岐大蛇の話は、出雲国の話ですもんね。そしてこの神社と稲田神社の間には、創建は最近ですが、「出雲大社常陸分社」があります。となると当社は高鴨神社からの勧請かな。なんだかこれは、あながち当てずっぽうの話ではないかも(・∀・)などと妄想してみました、すいません(;´Д`)

こんな下らない駄文に付き合って下さった方、有難うございます( ´ ▽ ` )ノ結局大風呂敷を広げて案の定たたむ事すら放棄してます^^;

なんか、変に熱くなり過ぎたので、神社参拝の方はまさかの後編に続きます((((;゚Д゚))))

 




 

2012年6月23日土曜日

稻田神社(笠間市)

茨城県笠間市稲田に鎮座する稻田神社(いなだじんじゃ)のご紹介です

御祭神は神社名の通り「奇稲田姫命」になります。延喜式内社の名神大社という社格を持つ古社です。また、延喜式神名帳に記された神社の中で唯一奇稲田姫命を単独で主祭神として祀る神社でもあります。

詳しい創建年代は不詳ですが、続日本紀にその名前が記されている事から、延暦十六年(797)には創建されていたと考えられています。

当社は奇稲田姫命を単独で祀りますが、同時に摂社として、夫である素戔嗚尊を祀る八雲神社、母である手摩乳命を祀る手摩乳神社、父である足名椎命を祀る脚摩乳神社があり、稻田神社を含め、四宇の神籬として重要視しているとのことです。

中世には領主の笠間市の庇護を受け有力な神社として栄えましたが、中世末期の二度の火災で衰退、慶長七年(1602)に再興を果たしますが、元禄八年(1695)に徳川光圀公が参拝したおりに、

「此やしろは神名帳にものりて尊き社なるを、かやうに零落し候段、痛ましき御事也」

と、その衰退ぶりを憂う状態だったそうです。

その後、将軍家の繁栄と天下泰平を祈願し四神旗を寄進しています。

神社は更に弘化二年(1845)、民家の火災に巻き込まれ焼失しますが、四神旗は無事で現在は茨城県の指定文化財となっています。

 

さて、神社です。場所は国道50号線から脇にちょっと入ったところで、白い大鳥居と「縣社 稻田神社」の社号標があります。

勉強不足もあり、結構通る道のすぐそばに、しかも名神大社の神社があるなんて、ちっとも知りませんでした^^;

大鳥居を過ぎると、神社へと向かう階段があり、階段途中には「延喜式内名神大社 稲田神社」の社号標があります。

境内です。拝殿と、向かって左手に渡り廊下でつながった建物があります。向かって右手には広い空間があります。すぐ目前の国道は交通量も多いのですが、嘘のような静けさです

境内は綺麗に整備されていますが、所々地震の影響で、灯篭が何本か倒れていました。

扁額です

神紋は「左三つ巴」と、五円玉でお馴染みの「抱き稲」です

拝殿です。弘化二年の焼失の3年後に再建され、現在に至っています

本殿です。華美な彫刻はありませんが、落ち着いた雰囲気が静かな境内にぴったりとあいます。

拝殿前には「復興奉賛金にご協力下さい」と書いてあり、そんなにひどい被害は見た感じないよなぁと思っていましたが、拝殿の右手側に回ってビックリ!

玉垣が半分側ありませんでした。う〜ん、痛々しい…

こちらは本殿右手にある摂社の八雲神社です

手摩乳神社と脚摩乳神社は、それぞれ拝殿の左右前方に配されています。しかしこれで"てなづち""あしなづち"って読むんですね、参拝時には読めずに家に帰って調べて初めて分かりました(^_^;)っていうか、何となく察しろよ(´Д` )

当社にはその他にもいくつかの末社がありますが、特徴としてどの屋根も水色に塗られています。何かの由来があるんでしょうかね?

こちらも末社なんでしょうか、神社隣にある運動場のそばに大山祇神社の石碑がありました

参拝終了後、御朱印をもらいに宮司さん宅へ。初穂料を納めようとすると、大丈夫だからと固辞されてしまいました。と、言うことで、いつもの御朱印代にプラスαして、復興奉賛金として受け取って頂きました。本当にちょっとの金額ですが、由緒ある古社が少しでも早くもとの姿を取り戻せますように( ̄人 ̄)

その後、宮司さんと世間話、特に甲子園の話に花が咲いてしまいました^^;僕の母校の鉾田一高が甲子園出場した時の話とか、まぁ、僕がいた時には既に遥か昔の栄光でしたけどね(^_^;)しかし、こんなところで母校の名前が出るとはと、ちょっとビックリでした( ̄▽ ̄)