御祭神は豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)、高龗神(たかおかみのかみ)の二柱で、配祀神として国常立尊、大己貴命、少彦名命、国狭槌命、豊斟渟命、猿田彦命、金山彦命、天日鷲命、武甕槌命が配されています。
当社は延喜式神名帳に「常陸國新治郡 佐志能神社」として記された延喜式内小社の論社となっています。
御由緒として、祭神の豊城入彦命は10代崇神天皇の第一皇子で、崇神天皇の勅命で東国鎮定を任され、大功をたてます。そのことにより子孫は東国の国造に命じられる事が多く、祭神の玄孫である荒田別命の子孫、佐白公が新治国造に任じられた時に、祖神を龍神山に鎮祭したのが始まりとされているようです。佐志能というのも、佐白が転訛したものであるとされています。
また、以前には村上村にあったので、日本三代実録には村上神とも書かれています。
時代は下り、村上村より染谷村が分村する際、当社は染谷村の地域に入ります。この事から、村上村では別に佐志能神社(村上社)を創立し、日本武尊と闇龗神(くらおかみのかみ)を鎮斎したとのことです。これは、同じ龍神山に鎮座する、村上の佐志能神社の御由緒に関わる部分になります。
ちょっと御由緒から脱線しますが、佐志能神社の鎮座する龍神山は古くよりその名が示すように、龍神信仰があった場所のようです。染谷、村上の佐志能神社に祀られる高龗神、暗龗神は、同じ神様、あるいは対をなす神様で、総称として龗神・淤加美神(おかみのかみ)と呼ばれる水の神様であるとされています。一方、もう一柱の祭神である豊城入彦命と日本武尊も東国平定という類似した足跡を持っています。この事から、染谷、村上にある佐志能神社は深い関係にある事が分かりますが、調べると諸説入り乱れている感じで、祭神も時代により変化をしているようです。いずれにしろ、染谷、村上の佐志能神社が深い関係、もしくは二社で一社の佐志能神社として考えた方が良いのかなど、話は膨らんでいきそうです。
話を戻しますと、文久二年(1862)に社殿が炎上、その後再建を果たします。明治二十九年、郷社に列格し、同じく四十三年、この年に周辺の各神社を合併し、配祀神としています。
さて神社です。
神社の鎮座地である龍神山です。
その昔はなだらかな山稜であったそうですが、民間の採石業者に売却され、現在はポッカリと中央が抉れたような痛々しいお姿に(´・ω・`)
染谷の佐志能神社は龍神山の南側、「常陸風土記の丘」の近くに鎮座します。
社頭です。
一の鳥居です。
手水舎です。
二の鳥居です。
石段を登り切ると正面に注連縄の渡された岩があります。
神社にあった案内板を参考にすると、『本殿左手の屏風岩には、「風神の穴」と呼ばれる穴がある。この穴に指を入れると、雷鳴が鳴るまで抜けなくなってしまうという伝説があり、夏になると、ここから黒雲がまき起こって雷神が現れ、雨を降らせるという。』と書かれていました。
ここの何処かの穴が「風神の穴」なんでしょうが、本当に抜けなくなっても困るので鑑賞だけにしておきました(^^)/
拝殿です。
左手には岩が迫っています。
右手は人がひとりやっと通れるほどしか幅が無い通路で、横はすぐ崖になっていますΣ(゚Д゚)高さはそれほどじゃないですが、それでもちょっと怖いです(・・;
本殿はトタンで囲まれています。
此方の不動明王には「波切不動明王」の名と、天保元年の文字が見て取れます。
社殿から少し離れた場所には境内社がありました。茨城県神社名鑑を参考にすると、境内社は神武天皇社と大杉神社と書かれていましたので、どちらかなのでしょう。
聳える岩肌は、見上げると結構な迫力もあります(^^)
その一角に突き出た筒状のもの。その真下には水が湛えられそうな石組みが巡らせてありました。
すぐ横に『瀧水路』と記載がありました。が、残念ながら今は水が出る気配はなさそうです。
参拝を終え、改めて龍神山を望みます。
信仰とされてきた場所、出来れば自然な形で残してもらいたいものです(-_-;)
さて、此方の神社は現在、同じ石岡市の常陸國總社宮の宮司さんが兼務社として関わっており、御朱印も惣社宮で頂くことが出来ます。
次回は村上の佐志能神社をご紹介しようと思いますので、宜しければまたご覧くださいませませ(^^)/