神社の名前の通り、以前には鹿嶋宮と八幡宮とが別々にあり、江戸時代に合祀され、現在のような形になったようです。
御祭神は鹿嶋宮が武甕槌命、八幡宮が誉田別命を祀ります。
御由緒として、鹿嶋宮が平城天皇の御代西暦806年(元号でいうと延暦二十五年か大同元年でしょうか?)に御祭神である武甕槌命を奉遷します。後に佐竹氏の祖である佐竹昌義が本殿を造営します。
八幡宮は康平六年(1063)八月に、源頼義が前九年の役を平定して帰京する途中、西馬場の地に勧請し戦勝を謝し、永保元年(1081)に源義家が境内や参道を修造したとのことです。後に佐竹義直により再建されます。
慶安元年(1648)には徳川家光公より鹿嶋宮へご朱印地十五石、八幡宮へは二十石が授けられます。
元禄七年(1694)徳川光圀公が八幡宮と鹿嶋宮を合祀し社殿を改築、額田神宮の称を賜ります。これは所謂水戸藩の「八幡改め」の一環として行われたことかと思いますが、名称自体は「額田鹿嶋八幡宮」が正式であったようで、二年後の元禄九年にも神社名称が変更されますが、これも「額田鹿嶋八幡神社」と八幡の名称は残っていたようです。それだけ有力な八幡神社だったのかなと考えることも出来そうです。
ちなみにこの八幡改めの際に整理されなかった八幡宮は、当時水戸藩にあった105社の内4社だけで、水戸八幡宮(水戸)、若宮八幡宮(常陸太田)、馬場八幡宮(常陸太田)、安良川八幡宮(高萩)のみでした。
明治に入ると村社に列格し、社名も鹿嶋八幡神社に改められますが、以上の由来から地元では額田神社と呼ばれることが多いようです。
さて神社です。今回の写真は平成二十六年三月と平成二十八年五月の写真を使用しています。
神社の鎮座地は国道349そばにあり、近くまではそう迷わずに行けるのですが、そこから神社に行くまでの道がどこも細く、特に車で参拝する場合には分かり辛いかもしれません。地図を参照にしてもらえれば良いですが、神社南にある額田小学校の周囲をぐるりと回って参道正面に出るのが一番迷わずに行けるかもしれません(´・Д・)」
神社参道です。
参道入り口の社号標です。
参道途中には立派な山桜の古木があります。
「茨城桜見立て番付」と書かれた案内には、なんとこの山桜、西の横綱とあります∑(゚Д゚)凄い!!
この時にはまだ桜の開花前の三月の参拝、その次には桜が咲き終わった五月の参拝、何というか、考えて参拝しなさいよと(⌒-⌒; )
長〜い参道を進んでいきます。ちなみに駐車場は、参道を抜けた鳥居手前の所に大きい駐車場があります。
鳥居は白の立派なものです。
手水舎です。
広い境内、敷き詰められた玉砂利の感覚が心地良いです。
狛犬さんです。
かなり見辛いですが昭和十四年と見えるような気がします。
拝殿です。
建立は明治十八年(1885)になります。
神紋は「左三つ巴」と「菊花」それぞれありますね。
扁額は明治元年に奉納、揮毫は水戸学で有名な会沢正志斎によるものだそうです。
細かい彫刻、綺麗ですね^ ^
鹿嶋八幡神社の名の通り、本殿は鹿嶋宮、八幡宮と二つ並んでおります。
此方は鹿嶋宮の本殿です。
鹿嶋宮の本殿は流造ですね。
此方は八幡宮の本殿です。
此方の本殿は日吉造に見えますが、違うのかな?こう言うのに詳しくないからいつも書く時に迷います(´Д` )
本殿後方には立派な幹周りの巨木、徳川光圀公お手植えの熊野杉の御神木だそうです。
現在は幹しかありませんが、樹高25m、樹齢三百年の立派なものだったようです。
瑞垣内の立派な真榊も、徳川光圀公のお手植えだそうで、今も立派に聳えています( ´ ▽ ` )ノ
瑞垣内には謎の御神輿がΣ( ̄。 ̄ノ)ノ
郵便局の御神輿・・・( ? _ ? )
社殿周囲には多くの境内摂末社があります。
素鵞神社です。
天保年間(1830-1844)以降の創建と考えられています。
別雷皇大神です。
天保年間(1830-1844)以降の創建と考えられています。
神輿庫です。
境内社です。
月読神社です。
稲村神社かな?
駒形神社です。
一社には七貴神社と書かれていますが、残り二社は墨が消えていて分かりませんね。
大鳥居の足元にも境内社があります。足尾神社と、
鷺森神社です。この場所に配置したのは何か理由があるのかな?宮司さんに聞いとけばよかったorz
社殿右奥には淡嶋神社が鎮座します。江戸時代になり婦人病が流行すると、婦人病、子授けの神様として有名な淡島神への信仰が全国的に広まり、額田神社境内にも正保元年(1644)に勧請、創建となります。
平成十二年に淡嶋神社建て替えの時に、本殿内に蛇のミイラが見つかり、現在の新しくした本殿内に安置しているそうです。
御朱印は宮司さん宅でいただけました。
今度は山桜が開花した時に行ってみよう( ´ ▽ ` )ノ
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