2015年11月24日火曜日

ふら~り、神社探訪 和歌山編 二日目その弐

気付けば放置プレイ状態で年末まであと少し‼︎大変申し訳ございませんでしたm(_ _)m
さてさて、和歌山神社探訪、二日目続きです!
紀州東照宮の参拝を終え、次なる神社の為に西へ向かいます(((((((((((っ・ω・)っ ブーン
と言う事で、「竈山神社(かまやまじんじゃ)」のご紹介です。
御祭神は彦五瀬命(ひこいつせのみこと)で、神武天皇の長兄として知られる神様です。
配祀神として、左脇殿には稲氷命(いなひのみこと:次男)、御毛入沼命(みけいりぬのみこと:三男)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと:四男:神武天皇)が祀られています。
右脇殿には神武東征に従軍した随神で、高倉下命(たかくらじのみこと)、可美真手命(うましまでのみこと)、天日方竒日方命(あめのひがたくしびがたのみこと)、天種子命(あめのたねこのみこと)、天富命(あめのとみのみこと)、道臣命(みちのおみのみこと)、大久米命(おおくめのみこと)、椎根津彦命(しいねつひこのみこと)、八咫烏命(やたがらすのみこと)が祀られています。
御由緒として、神武天皇の東征の折、一行は生駒山の豪族である長脛彦と孔舎衛坂(くさえざか)で刃を交えます。この戦いの際に、彦五瀬命は矢傷を負い、雄湊(おのみなと)と言う場所で亡くなります。旅の途中であった為、彦五瀬命は近くの小高い丘に葬られたと言われます。その丘が竈山であるとのことで、当社は彦五瀬命の神霊を祀る神社として創建されました。現在でも本殿裏手には彦五瀬命の陵墓とされる「竈山墓(かまやまのはか)」があります。
延喜式神名帳では「紀伊國名草郡」の式内小社に列しています。天正十三年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めの兵火に罹り、社殿、宝物、古記録等を失います。寛文九年(1669)、徳川頼宣光による再建が果たされ、和歌山城主歴代の崇敬を受けます。明治六年には村社に列し、明治十八年には官幣中社に昇格します。更に大正四年には官幣大社に昇格しています。
ちなみに村社から官幣大社まで昇格した例は、ここ竈山神社だけだそうです。当時の国家神道の発展や世相というものが絡んでいるのでしょう。
昭和十三年には社殿を造営、境内を拡張し、現在に至ります。

さて、神社です。
社号標です。
狛犬さんは筋骨隆々ですね^ ^
広い境内を真っ直ぐに参道が伸びていきます。
手水舎です。
神門です。
参拝が6月30日だったので、茅の輪くぐりの神事の準備がされていました。
神門を抜けた境内は立派な社殿の存在感もさる言ながら、とにかく綺麗で見惚れてしまいそうになる空間です。
拝殿です。
神紋は「尾流れ三つ巴」と、見つけられませんでしたが「子持ち三柏」だそうです。
本殿は木々に覆われはっきりとは見えませんが、きっと立派なものなのでしょうね。
幣殿と思われる建物の裏に本殿がわずかに見えます。
本殿裏手には彦五瀬命の陵墓があると言われています。
社殿右手には境内社が並びます。
合祀社です。
結社です。
子安社です。
この他に青葉神社があったのですが、写真を撮ってなかったようです(-。-;
御朱印は社務所で頂けます。
此方は兎に角境内が広く、ゆっくり散策したかったんですが、暑さにやられ、早々に断念orz竈山墓ぐらい見ておけばよかったなぁ(´・Д・)」

竈山神社の参拝を終え、どうせなら三社巡りをしましょうと言う事で、次なる神社へ(((((((((((っ・ω・)っ
ちなみに三社巡りとは、初詣に三つの神社に詣る事だそうで、主に西日本、特に九州を中心とした風習だそうです。関東に住んでいると、初詣は一つの神社という意識が強く、地域によって風習と言うのがいかにバラエティに富んでいるかが窺い知れ、楽しくなりますね。
ここ和歌山市では、竈山神社、日前神宮・国懸神宮、伊太祁曽神社の三社を巡る事を三社巡りとするそうです(^^)
いや、初詣じゃないし、それ以前に三社以上巡ってるよね、などと言う意見はスルーします( ̄▽ ̄)
という事で続きましては「伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)」のご紹介です。
御祭神は五十猛命(いたけるのみこと:大屋毘古神⦅おおやびこのかみ⦆)、大屋津比売命(おおやつひめのみこと)、都麻津比売命(つまつひめのみこと)の三柱の神様を祀っています。三柱とも須佐男命の子であり、木の神として信仰されています。
御由緒として、具体的な年号の所見は「続日本紀」の文武天皇大宝二年(702)になります。現在の鎮座地に祀られる前には、後述する日前神宮・国懸神宮の社地にお祀りされていましたが、垂仁天皇十六年に日前宮が同所に鎮座するにあたり、山東(さんどう、現在の伊太祁曽)に遷座したようです。しかしその場所は現在の社殿がある場所ではなく、南東に500mほど離れた「亥の森(いのもり)」と呼ばれる場所だったそうです。現在の社地への鎮座は和銅六年(713)と伝えられています。
延喜式神名帳では名神大社に預かり、紀伊國一宮として崇敬を受けていきます。明治十八年には国幣中社に列格し、大正七年には官幣中社に昇格しています。
日本書記には、五十猛命は、父神である須佐男命とともに高天原から新羅に天下ったと記されています。この時に須佐男命は木種を持っていましたが、その地には植えず、大八洲国(おおやしまぐに:日本)に持ち来たります。須佐男命は「韓郷之嶋(からくにのしま:中国大陸)には金銀財宝があるが、吾児所御国(あがみこのしらすくに:日本)には浮宝(船)なければ運ぶ事が出来ないので良くない」と言われ、鬚髯(ひげ)を抜くと杉になり、胸毛は檜、尻毛は槙、眉毛は楠となりました。そして「杉と楠は船の材に、檜は社殿を造る材に、槙は棺桶に利用しなさい」と言われ、 息子である五十猛命にその木種を撒き施すように命じたそうです。五十猛命は妹神である大谷津比売命、都麻津比売命とともに日本の国中に木種を蒔いていき、最後に現在の和歌山県にお鎮まりになったとの事です。この事から伊太祁曽神社が木の神様として広く知られていく事となります。
さて、神社です。
神社は県道9号線と138号線のぶつかる場所にあります。
一の鳥居と社号標、木の神様の神社らしく、どちらも木製ですね。
鳥居裏手には境内社の「櫛岩間戸神社(くしいわまとじんじゃ)」があります。御祭神は櫛岩間戸神と豊岩間戸神です。
二の鳥居です。
狛犬さんは新しいものですね。
太鼓橋です。
太鼓橋を過ぎると玉砂利が綺麗に敷き詰められた広い境内、さすが一宮と言った佇まいです。
手水舎です。
割拝殿を抜けると本殿と拝所が飛び込んできます。
神紋は伊太祁曽の「太」だそうです。
本殿正面向かって右手には大屋津比売命が祀られている左脇宮があります。
本殿と左脇宮です。
こちらは本殿正面向かって左手、都麻津比売命が祀られている右脇宮です。
本殿と右脇宮です。
本殿の左手、境内社である氣生神社です。
御祭神は五十猛命の荒魂になります。
本殿拝所の前には珠抱申と題された木彫りの彫刻が奉納されています。
これは常日頃からの木々の恩恵に感謝するお祭り、「木祭り」で行われるチェーンソーカービング実演奉納で彫刻された作品です。
割拝殿内には、これまで奉納された干支の動物たちが堂々と並んでいます。
躍動感がすごいぞな(*'▽')
同じ割拝殿内には巨大な洞の開いた巨木。
「木俣くぐり」と書かれたこちらは、古事記にも書かれているもので、かつて大国主神が八上比売をめぐって兄である八十神から命を狙われた時に、母神の刺国若比売が、「木国の大屋毘古(五十猛命)のところへ逃げなさい」と急がせます。大国主神は八十神に追われ、矢を射られますが、大屋毘古神の助言により、木の股をくぐり上手く逃れて助かったという話にちなみ、この穴をくぐると災難除けになると言われているそうです。
此方は境内社の蛭子神社です。
明治の神社合祀令によって、東西山東の各大字に祀られていた22の神社が合祀されています。
蛭子神社前には「霊石おさる石」があります。
猿の頭の形をした石で、首より上の病に霊験著しいとか。
同じく蛭子神社前にはこちらもチェーンソーで作ったとは思えない龍神の彫刻です。
神社から左手に向かうと、五十猛命の父神である須佐男命を祀った祇園神社があります。
祇園神社に向かう途中には、「磐(いわくら)」があります。須佐男命と五十猛命が新羅に天下り、「此の国には居りたくない」として舟を造り東に渡り、出雲国の簸川上の鳥上峯(船通山)に至ったとのことです。その船通山より出土した磐をここに神祀りし、彼の地を遥かに拝む縁といたします、とのことです。
祇園神社は最近修繕されたのか、新しい社殿は日の光を受け眩しいです。
社務所裏から山中を抜ける道より、境内社である「御井社(みいのやしろ)」に至れます。
彌都波能売神(みずはのめのかみ)と御井神(みいのかみ)を祀っています。
社殿前には井戸があり、古来より「いのちの水」と呼ばれ、病人に飲ませると活力を得ると伝えられているそうです。
ちなみに当社には境外社として、丹生神社と三生神社があります。特に三生神社は御由緒で書いた旧社地である亥の森であり、家に帰ってから知りましたorz下調べ下調べ(−_−;)
御朱印は社務所で頂けます。

さてさて、竈山神社、伊太祁曽神社と来たので、三社巡りのもう一社である神社へと車を走らせますぞ(((((((((((っ・ω・)っ
という事で、「日前神宮(ひのくまじんぐう)・国懸神宮(くにかかすじんぐう)」のご紹介です。
日前神宮と国懸神宮は同じ社地の中に鎮座しており、総称して日前宮(にちぜんぐう)と呼ばれる事が多いようです。
御祭神は日前神宮が日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し、相殿神として思兼命(おもいかねのみこと)と石凝姥命(いしこりどめのみこと)を祀っています。
国懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として国懸大神を奉祀し、相殿神として玉祖命(たまおやのみこと)、明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)、鈿女命(うずめのみこと)を祀っています。
御由緒として、天照大御神が天岩戸に隠れてしまい、思兼命の議に従い、多くの供物を備え、天照大御神の心を慰め和んでもらうため、石凝姥命が天香山の銅を採取して天照大御神の御鏡を鋳造しました。
鋳造した御鏡は天照大御神の前霊(さきみたま)として、日前国懸両神宮の御神体となり、次に鋳造した御鏡(八咫鏡)を伊勢の神宮の御神体として奉祀したと日本書紀に伝わるそうです。この事から日像鏡、日矛鏡、八咫鏡は御同体であり、日像鏡と日矛鏡を御神体とする日前国懸両大神は天照大御神の別名である、と言う事なのだそうです。ただし、これには異説もあるとかないとか。
八咫鏡を含んだ三種の神器は、後に天孫降臨の際に瓊瓊杵命に授けますが、日像鏡と日矛鏡も一緒に副えられます。その後の神武東征後、神武天皇は紀氏の祖神である天道根命(あまのみちねのみこと)を紀伊国造に任じ、二つの神鏡を授け、鎮座地を探すよう命じます。天道根命は諸国を遍歴し、名草郡毛見郷に地で奉祀したのが両宮の起源とされています。
崇神天皇五十一年、名草郡濱ノ宮に遷宮し、垂仁天皇十六年には、前述の伊太祁曽神社の地に遷宮し、伊太祁曽神社は亥の森の地に遷座します。
日前宮は明治四年に官幣大社に列しますが、それまでは両宮ともに神階が与えられていませんでした。これは日前宮の他には伊勢神宮だけであり、朝廷が神階を贈らない、別格の神社であるという事です。
延喜式神名帳では両宮とも名神大社に列し、紀伊国一宮として崇敬を集め、親しみを込めて「にちぜんさん」とも呼ばれていきます。
戦国時代には豊臣秀吉の天正の兵乱で境内は荒廃し、社領が没収されますが、徳川頼宣により再建が果たされます。明治に入り官幣大社に列格すると、大正八年に国費により境内建物の全てを改善工事を行い、大正十五年三月の完成を持って、現在の姿となっています。

さてさて、神社です。
社号標です。
白の大鳥居を抜けると、整然とした境内が広がります。目の前を走る道路は交通量も多いのですが、鳥居を超えると不思議に静寂に包まれます。
必要最小限の建物は装飾も少なく、凛とした佇まいを際立たせる気がします。
手水舎です。
此方は絵馬堂と神楽殿です。
森の中に誘われるように参道が続いていきます。
何だか伊勢の内宮や外宮に雰囲気が似ている気がします。
直進していくと、参道は突き当たりにぶつかります。
此処から左に向かうと日前神宮、右に向かうと国懸神宮です。
古くはこの奥に参道が更に続き、護摩堂や権現堂があったそうです。
現在はこれ以上進む事はできませんが、森の中に常夜灯が建っているのが見え、往時を偲ぶ事ができます。
では、まずは日前神宮へと向かいます。ちなみに両宮を参拝する正式な順序は定められていないそうですが、お正月など参拝者がひしめく時などは混乱を避けるために日前神宮から国懸神宮の順で参拝する事になっているそうです。
日前神宮です。
拝殿です。
拝殿奥には神門と玉垣に囲まれた本殿が鎮まります。
飾り金具は多いですが、それ以外の装飾は少なく、どっしりと重厚な様子は威厳に満ち満ちているように感じられます。
其処彼処に菊花や変形の三つ巴は見えますが、神紋は「たばねのし」だそうで、残念ながら見つける事はできませんでした(−_−;)
次は国懸神宮へと向かいます。
はい、国懸神宮です。
全く同じ造りの鳥居、拝殿、本殿で、案内板がないとホントにどっちかわからなくなってしまいます。特に写真だとそれが顕著ですね。
とは言え、やはり厳かな佇まい、背筋が伸びる思いです。
日前神宮と国懸神宮を結ぶ参道に沿って、境内社が鎮座します。
此方は摂社の天道根神社です。
御祭神は日前宮を創建した天道根命になります。
此方も摂社の中言神社(なかごとじんじゃ)です。
二つの社殿は、向かって左側に名草姫命(なぐさひめのみこと)、右側に名草彦命(なぐさひこのみこと)が祀られています。
名草姫命は名草戸畔(なぐさとべ)という名の豪族の女王として、紀ノ川、名草山を統治しており、神武東征により敗れます。後に名草彦命は朝廷に帰順し、5代目の紀伊国造に任ぜられたとのことです。
和歌山県内にある中言神社の総本社とされています。
此方は末社の深草神社(ふかくさじんじゃ)です。
御祭神は野槌神(のづちのかみ)で、草や野に関する全てを司る神様で、神使の牛とともに信仰されることが多いそうです。
此方は末社の邦安神社(くにやすじんじゃ)です。
御祭神は松平頼雄命(まつだいらよりかつのみこと)です。
末社の松尾神社は京都の松尾大社から分霊された社です。
此方も末社の市戎神社(いちえびすじんじゃ)です。
江戸中期に遷座した末社で、御祭神は蛭子神です。
当時は周辺で市が賑わっていたことが社名の由来だそうです。毎年一月の三日間には「日前宮えびす詣り」が行われています。
この一角だけ幟がたくさん奉納されており、赤色が目を引きます^ ^
この他に日前神宮、国懸神宮ともに、正面に参道が続き、その参道沿いにも小さなお社が幾つもありますが、案内板の類は無く、詳細不明です。

御朱印は社務所で頂けます。

という言で、今回はここまでです。すでに旅行行ってから半年が過ぎちゃって、まだ半分ぐらいしか紹介できてないんですね^^;今年度中には終わらせたいなぁ、、、
中々更新出来ず申し訳ありませんが、またお付き合いいただければ幸いでございますm(_ _)m