2014年6月23日月曜日

ふら~り、神社探訪 南房総編 その参

南房総の旅、つづきです。今回は一部に平成十九年参拝時の写真も混じっています。

前回ご紹介の鶴谷八幡宮を後にして、国道410号線を南下、次の目的地である安房神社へ。

ということで、千葉県館山市大神宮に鎮座の「安房神社(あわじんじゃ)」のご紹介です。

御祭神は本社である上の宮に「天太玉命(あめのふとたまのみこと)」を祀り、相殿に后神である「天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)」と、忌部五部神である「櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)」、「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」、「彦狭知命(ひこさしりのみこと)」、「手置帆負命(たおきほおいのみこと)」、「天目一箇命(あめのまひとつのみこと)」を祀っています。

また、摂社である下の宮に、「天富命(あまとみのみこと)」と「天忍日命(あめのおしひのみこと)」が祀られています。

御由緒として、創建は神武天皇の時代であり、2600年前とされています。下の宮に祀られている天富命が神武天皇の勅命で、四国阿波の開拓を終えた後、更に肥沃な土地の開拓を命じられ、阿波徳島の忌部一族を率い、海路で房総南端の地に到着します。そして上総、下総に進み麻や穀と言った植物を播殖し、産業地域を広げます。天富命は、開拓を無事負えられたのは祖先の御加護によるものだと考え、上陸地である布良浜の男神山に天太玉命を、女神山に天比理刀咩命を祀ったのが安房神社の起源とされています。

養老元年(717)、現在地に天太玉命を奉斎し、同時に天富命を祀る為の下の宮が造営されます。

延喜式神名帳では名神大社に列し、また安房國一の宮として朝廷、武家のみならず、民衆からも篤い崇敬を受けてきたようです。明治時代に入り、近代社格制度では官幣大社に列せられます。

 

さてさて、神社です。

神社は410号線沿い、大神宮と言う地区のホームセンター「コメリ」の横の道を直進するとすぐになります。

一の鳥居です。

社号標です。揮毫は連合艦隊で有名な東郷平八郎によるものだそうです。

此方は平成十九年参拝時の社号標です。この時にはまだ官幣大社の文字もそのままだったんですね。

綺麗に整備された参道は桜並木で、四月に来たらさぞ綺麗なんでしょうね(⌒▽⌒)

二の鳥居です。

手水舎です。

境内には大木が聳え、また吾谷山(あずちやま)の麓で山がすぐ迫り、開けているのに山深いような、不思議な感じがしますね^ ^

上の宮である拝殿です。

社号標です。

神紋は「菊花紋」ですね。

本殿は神明造りです。

明治十四年の造営で、平成21年に大修造が実施されています。

此方は神饌所です。

現在では主に一月十四日、十五日に行われる「置炭神事(おきすみしんじ)」「粥占神事(かゆうらしんじ)」で使われているそうです。これは一年の天候とその年の農作物の豊凶を占定するもので、宝暦年間(1751〜1763)から行われている神事だそうです。

上の宮から右手に右手に進むと、摂社である下の宮です。

下の宮の前方には、あまり目立つ場所ではありませんが、立派なご神木である槇の大木があります。

御神木のそばにはかつての社号標があります。

「勲一等 安房座太神宮 御鎮座」と刻まれているみたいです。

此方は上の宮、向かって左手にある御仮屋(おかりや)です。

前回紹介の鶴谷八幡宮にあったものと同じく、例祭の際に近郷から出仕してきた神輿を納めるための施設ですが、現在は使用されていないのだそうです。

此方は末社の琴平社です。

安房神社境内で、唯一此処にだけ狛犬さんがいらっしゃいました(^◇^)

拝殿前の大きな海食岸をくり抜いて、末社の厳島社があります。

 

御朱印は社務所で頂けます。

平成十九年参拝時の御朱印も一緒に載せておきます(・ω・)ノ
 

安房神社を後にし、海沿いの道である房総フラワーライン、県道257号線を北西方面に抜けて行き、次の目的地へ向かいます。

と言うことで、千葉県館山市洲崎鎮座の「洲崎神社(すのさきじんじゃ)」のご紹介です。

御祭神は天太玉命の后神である「天比理刀咩命」を主祭神とし、相殿神として天太玉命と天富命を祀っています。

御由緒として、創建は神武天皇の御代、四国阿波より開拓にやってきた天富命が、忌部氏の総祖神である天太玉命の后神である天比理刀咩命を祀ったのが始まりとされています。この辺りは安房國の成立に関わる神話であり、安房神社と非常に似通った話が伝えられていますね。

平安末期、源頼朝が安房へ落ち延びた時には当社へ参籠し、源氏再興を祈願しています。また、妻政子の安産祈願の為に奉幣使いをだし、広大な神田の寄進が行われ、以降は関東武家の崇敬が篤く、それは江戸時代まで続きます。

延喜式神名帳では、安房國安房郡の「后神天比理刀咩命神社」として記載された式内大社の論社とされています。また、安房國一の宮としても伝わっています。しかし、安房國一の宮に関しては、江戸時代から言われたことであるようで、色々説があるようです。

明治六年、近代社格制度では県社に列格しています。

 

さて、神社です。

神社は県道257号線沿いにありますが、ちょうどカーブ地点にあったりするので、車で参拝の際にはお気をつけて^_^

また、駐車場は鳥居横の空いたスペースで大丈夫なようです。

社号標です。

此方の大鳥居は一の鳥居ではなく二の鳥居になります。

一の鳥居は海岸の方角にあります。ので、後述します。

また、鳥居前には「久那土大神」と書かれた注連縄が渡されています。狛犬の代わりに魔除けとして祀られているのだそうです。

平成十九年参拝時には、注連縄は大鳥居につけてあったようですね。

此方は「子宝の蘇鉄」の名があるようです。

手水舎です。

此方は随神門です。宝永年間(1704ー1710)の造営になります。

かなり急な石段が続きます。

石段には厄祓坂の名前があります。

晴れた日などには気持ち良く登れますが、以前参拝時は雨降りの直後で、かなり怖かった記憶があります(^^;;

途中には不思議な物体が、左右に配置されています。

実はこれは、例大祭の時の神輿渡御で使用されるものです。この急な階段を下ろして行く時に、落下しないよう縄を渡すのだそうです。何処かに説明文があったのを写真にまで撮った気がしたのですが、結局写真を撮ってなく、記憶で書いているので、間違っていたらすいませんm(_ _)m

石段を登り切るとまさに鎮守様と言った風情の境内がお目見えします^_^

拝殿です。

神紋は「菊花紋」です。

扁額です。現在の扁額は新しいものになります。

平成十九年参拝時には此方の扁額が掛けられていました。この扁額、徳川吉宗の孫で、寛政の改革を行ったことで知られる松平定信が奉納したもので、現在は別の場所に保管されているそうです。ちなみにこの扁額に書かれた「安房國一宮」が、江戸時代に当社を一の宮とした根拠になるそうです。

本殿です。

本殿は延宝年間(1673ー1681)の造営と伝わってますが、江戸中期に大修復をした記録も残っているそうです。

朱塗りの社殿は、落ち着いた彫刻に囲まれ、品の良い感じが伝わります(^-^)/

社殿右手には末社が集まる一角があります。

此方は長宮です。

豊玉彦命、大山津見命、建速須佐之男命、大物主命を祀っています。

石宮です。

金比羅神社です。

なんだかこの雰囲気がとても好きです(*^^*)

稲荷神社です。

伏見稲荷神社より、安永元年(1772)の勧請です。

稲荷神社の前からは、富士遥拝所に至るちょっとした山路が続きます。

富士見鳥居です。

この日は逆光の上、ガスってる状態で残念ながら対岸も望めませんでした(^^;;

さて、前述の通り、一の鳥居は県道を挟んで海岸側にあります。

此方が一の鳥居である浜鳥居です。

更に海岸に向かうと御神石があります。

由来として、御神石は、役小角が飛来し、海上安全の為に洲崎の地と現在の横須賀市吉井の地に祀っていたと言う伝説と、竜宮より一対の御神石が奉納されたが、その一つが天太玉命の御霊代として東国鎮護のため吉井の地に飛んで行ったと言う伝説があるそうです。

御神石は吉井の地に鎮座する安房口神社の御神体として御祀りされ、互いに向かい合い、安房口神社を「阿」、洲崎神社を「吽」とし、「阿吽の石」と呼ばれているそうです。

御神石から神社方向へ。富士見鳥居が山の中腹に見え隠れします。

さて、御朱印ですが、洲崎神社には宮司さんが常駐しておらず、南房総市の愛宕神社の宮司さんが兼務しており、そちらでいただくことになるそうです。ただ、お忙しいこともあり、神社に書き置きの御朱印も置いてあります。

今回は直接お伺いしようとも思ったのですが、参拝したのが5時を過ぎた頃で、此処からお伺いするのも失礼と思い、次の機会にしようと言うことで、書き置きのものをいただきました。

 

さてさて、長くなってしまったので今回はここまで。次が最後になりますので、もう少しお付き合いいただければ幸いですm(_ _)m