北茨城市関南町神岡に鎮座する「神岡稲荷神社(かみおかいなりじんじゃ)」のご紹介です
御由緒として(茨城縣神社誌と茨城県神社庁の紹介ページを参考にしています)、高野山で修行を終えた下総の僧、鑒栄は伏見稲荷の御分霊を拝受します。その後、奥州行脚の途上に当地の郷士である丹清右衛門尉の宅に泊まります(丹氏は前九年の役の際に、源頼義を勿来関に道案内をしています)
その夢の中で、「永く此処に鎮座せん」と神託があります
そこから清浄の地を得るため、高岡(ボンデン山、ぼんびん山)に登り、そこより御幣をを天空に投じると、現在の境内地へと落下し、お社を建て御分霊を鎮斎したのが当社の始まりとなります
天文十六年(1547)、当地の地頭山城守岩城忠次郎隆照が篤く崇敬し、本殿と拝殿を造営します
明暦元年(1655)十二月、奥州湯長谷の城主内藤豊前守信照しばしば参詣し、戦勝の奉賽に鳥居と玉垣を寄進します(ただ、内藤信照は棚倉藩の藩主であり、湯長谷藩、その分与前の磐城平藩は信照と別系統の内藤家が藩主であり、藩の誤記か、人名の誤記なのかな??)
享保七年(1722)、神祇管領より正一位を奉授されます
当社は徳川幕府老中松平周防守の祈願所でもあると紹介されていますが、松平周防守家から老中が排出されたのは三名です。その内、松平康福(三河岡崎藩主)と松平康任(石見浜田藩主)の時代は北茨城とは遠く離れています。一方、松平康直の時代は陸奥棚倉藩主であり、鎮座地は棚倉藩領であったことを考えると、松平周防守家が棚倉藩主になった時代以後に祈願所となったと思われます。ちなみに二人目の老中となった松平康任が不祥事を働いたせいで、次男が棚倉藩へ懲罰的移封を受けており、そこから当社との縁が生まれたわけですね
大正六年、暴風により拝殿が倒壊、大正十五年に再建しています
記載が無いため年数は不明ですが、旧社格は村社になります
さて、神社です⛩️
鎮座地は住宅地のド真ん中となります。私の検索のせいなのか、Googleナビがやたらと細い道を案内してきたので、車での参拝時は注意してください。特に神社東側は道が細いです
神社の専用駐車場はなかったため、神社に隣接する公園の駐車場に停めさせていただきました
社頭です
社号標です
一の鳥居です
手水舎です
拝殿です
扁額です
社紋は「五七の桐」です
本殿右手の境内社です
稲荷神社です
本殿左手にも複数の境内社があります
神社誌には境内社は愛宕神社、天満神社、秋葉神社、鷺森神社、雷神社、淡島神社、事比羅神社、八坂神社の記載があります
銀杏の木は樹齢600年以上と言われています
また、火防せの杉と呼ばれる御神木があるそうなんですが、残念ながら見つけられませんでした
御朱印は宮司さん宅で頂けます
宮司さん宅は南側の鳥居を抜け公園横の道に看板がありますので、そちらから向かいます
この日は兼務社のお祭りという事で宮司さんは御不在で書置きのものを頂きましたが、宮司さんが対応可能であれば直書きでも頂けるようです
そして、日付を書き忘れていました💦💦