2014年2月2日日曜日

息栖神社(神栖市)

茨城県神栖市息栖に鎮座する「息栖神社(いきすじんじゃ)」のご紹介です。

息栖神社は日本三代実録に記された式外社で、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮とともに東国三社と呼ばれています。

御祭神は岐神(くなどのかみ)を主祭神とし、相殿に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と住吉三神を祀っています。

祭神の岐神は鹿島大神・香取大神の先導にあたった神様になります。相殿神の天鳥船神も古事記では建御雷大神の副神として先導を務める神様であり、この神社が葦原中国平定と、東国開発に深い関わりのある事が窺えます。

御由緒として、社伝では応神天皇の御代に日川の地に創建されます。その後、藤原北家の礎を築いた藤原内麻呂により、大同二年(806)四月十三日に現在地へ遷座されたと言われています。

「日本三代実録」では「於岐都説( おきつせ)神社」と記されており、これは沖津洲、沖洲であり、此処から転じて「息栖」になったと考えられているそうです。当時は鎮座地を含む霞ヶ浦や千葉県の印旛沼などは香取海と呼ばれる内海であり、沖洲に祀られた神社ということなのでしょう。住吉三神は海上守護の神様であり、海上交通の要衝だったんでしょうね^ ^

また、日本三代実録に記載があるものの、「延喜式神名帳」への記載が無い為、国史見在社にあたります。

当社は前述した通り、古くより東国三社と称され、朝廷からの崇敬も厚く、元寇の際には国家安泰を祈願するために勅使が遣わされています。

江戸時代になると、特に関東以北の人々が「下三宮詣で」として、伊勢神宮参宮をしたら必ず鹿島・香取・息栖の三社へお参りする習慣があったそうです。

明治十年に県社に列格しています。


さて、神社です(今回の写真には平成二十二年七月と二十六年一月の写真が混じっています)。

息栖神社は、神栖市を縦断する国道124号線から県道44号線へと降り、北浦へと繋がる外浪逆浦の河畔に鎮座します。

社頭です。

二の鳥居です。一の鳥居は後で紹介します。

社号標です。

参道脇には、若者達が力比べを行ったと言われる「力石」があります。

ちょっと痛々しい姿ですが、それでも確りとした存在感の狛犬さんです( ̄^ ̄)ゞ

神門は弘化四年(1847)造営のものになります。

拝殿です。

昭和三十五年の火災により、拝殿、本殿は焼失してしまい、現在の拝殿、幣殿、本殿は昭和三十八年の再建です。

神門は「左三つ巴」です。

扁額です。

本殿です。

此方は御神木の杉の木で、別名「息栖神社の夫婦杉」と言われ、推定樹齢は千年だそうです*\(^o^)/*

境内社の四柱合祀社(鹿島神社、伊邪那岐神社、高房神社、奥宮)と五柱合祀社(香取神社、手子后神社、八龍神社、江神社、若宮)になります。

参道横には稲荷社があります。

さて、息栖神社の一の鳥居ですが、二の鳥居から300m程の所にあります。

一の鳥居です。

一の鳥居の左右にも大小の鳥居があり、「忍潮井(おしおい)」と呼ばれています。左右の鳥居下の水中には「男瓶」「女瓶」と言う井戸があり、かつて目の前の川が海であった頃、この中から清水が湧いており、潮の中にあって真水が出るので忍潮井の名がついたのだそうです。

「男瓶」は2m弱で銚子の形をしているそうです。

「女瓶」はやや小振りで土器の形だそうです。

忍潮井の伝説が石碑に記載されていたので、以下に引用します。

『その昔(平城天皇の御宇大同二年四月(八0九年)数キロ下流の日川地区より息栖神社が此の地に移された際とり残されてしまった男女二つの瓶はあとを慕って三日三晩哭き続けたが、とうとう自力で川を遡ぼり一の鳥居の下にヒタリ据え付いたと云う。この地に定着して後もときどき日川を恋しがり二つの瓶は泣いたと云われる。日川地区には瓶の泣き声をそのまゝの「ボウボウ川」と瓶との別れを惜んで名付けた「瓶立ち川」の地名が今も残されている。』

現在の忍潮井は昭和四十八年五月河川改修で現在地に移されています。

忍潮井前の常陸利根川河川敷からは遠く筑波山が望めました(^o^)


御朱印は社務所で頂けます。


鹿島神宮、香取神宮も参拝して、三社詣でも良いですね(^-^)/