2013年3月30日土曜日

手子后神社(城里)

茨城県東茨城郡城里町(旧桂村)上圷に鎮座する手子后神社(てごさきじんじゃ)のご紹介です

御祭神は埴安姫命(ハニヤスヒメノミコト)で、別名を埴山姫命とも言います

御由緒として、創建は大同二年(807)の創建になります桓武天皇の御代には、坂上田村麻呂の東夷征討の戦勝祈願がありました元来は「手子木崎神社」と称していた社名ですが、元禄九年(1696)に水戸藩主徳川光圀公により現在の社名である「手子后神社」と改称しています。旧社格は村社になります

御祭神の埴安姫命は土を司る神様であり、土壌を生命とする農民の五穀豊穣の守護神として崇敬の篤い神社でした。その為に、土を瓦として焼くことが土壌の生命を断つ事となり、神の怒りを買うと言われ、周辺地域では瓦を焼くこと、屋根に載せる家はなかったそうです。それでもかつて当社の屋根に土瓦をのせた事があったが、一晩のうちに崩れ落ちたという言い伝えもあるほどです。現在でも瓦をのせる家はセメント瓦を使っているそうですまた、当社にはもう一つ伝説があります。当社の鎮座する圷地区内の屋敷内には松の樹を植えた家が一軒もない、というものです。昔、神社の脇に大きな松の樹があったが、埴安姫命が松の葉で眼を突き怪我を為さり、松は伐られ、以来氏子は松を屋敷内へ植えないようになった、とのことです

この神社は、名前も珍しいですが、宮司さんに伺うと、茨城県でも当社含めて四社しかないそうです。そして、恐らくは神栖市の「手子后神社」からの分社でしょうとのことです。

参拝時には気づかなかったのですが、神栖市の手子后神社は「手子比賣命」で、御祭神が違うんですよね。もし分社であれば御祭神は変わらないと思いますが、何か理由があったのでしょうか?と、ここでふっと考えたのが、常陸國風土記の『童子女の松原』の話でした。

以前に神栖の手子后神社の所でも触れましたが、神栖の手子后神社はこの『童子女の松原』に出てくる安是の嬢子を祀った社ではないか、とも言われています。そして、この嬢子と恋仲になった郎子が、那賀の寒田の郎子、と呼ばれていました。当時の行政区画では、この地は那賀郡でした。勿論常陸國以外にも『ナカ』郡は存在し、そこにも『寒田』の地名はありますが、今回そこには眼を瞑って、実は当社は那珂の寒田の郎子所縁の神社だったんではΣ(・□・;)と、色んなものを無視して考えたりすると楽しいですよね( ´ ▽ ` )ノ

 

さて、神社です

当社の鎮座地はご由緒でも書いた通り、農民の守護神として崇敬の篤い神社であり、周囲を畑と自然に囲まれた長閑な場所に鎮座しています

社頭です

一の鳥居と社号標です

参道です

参拝は年明けすぐの早朝で、木洩れ陽の参道は清々しいほど気分が良かったです^o^

手水舎です

拝殿です

扁額です

写真では、と言うより肉眼でも分り辛かったですが、神紋は恐らく「左三つ巴」だと思われます

本殿です

此方は神輿殿です

御由緒書きによると、境内社は天満社、天王社、鷺森神社、鹿嶋神社、千勝神社、熊野神社、八龍神社、雷神社、稲荷神社になります

境内社は全部見つける事は出来ませんでした(´・_・`)

 

御朱印は神社横の宮司さんのお宅で頂けました

宮司さんとゆっくりお話をする機会がありましたが、神社のご由緒の他に、現在兼務している神社が十数社あり、とても大変だということが伺えました。その中には式内社が二社も含まれています。神職の方の不足が問題化し始めている事実を目の当たりにし、色々と考えさせられる参拝でした