此方は延喜式神名帳に記された、常陸國那賀郡 大二座小五座の中の名神大社で、常陸第三宮、旧県社になります
御祭神は日本武尊です
創建は当社の御由緒によると顕宗天皇・仁賢天皇の御代(485-498)と言われることから、五世紀末ということになります
御由緒として、尊が東夷を征せられての帰途、この朝日山に兵を留め憩わせた故を以って、当地に神社を創建したのが始まりとされています。
建久四年(1193)に後鳥羽天皇が国司に勅して社殿の改修をさせ、遷宮式が行われます。これより後には、鹿島神宮の遷宮に次いで当社の遷宮が行われる例が決められます。天正四年(1567)には陽光院太上天皇が自ら「第三宮」を記し扁額とします。徳川の世になると、三代将軍家光公が「吉田宮印」の朱印が与えられます。徳川頼房公が水戸に封ぜられると、水戸徳川家の崇敬は厚く、特に二代藩主光圀公は旧制に従い本殿(神明造)、拝殿、神楽殿、宝蔵、階、玉垣等を造営します。
明治六年には県社に列格し、現在まで多くの人の崇敬を集めていますが、本殿以下の建造物は、太平洋戦争の折り、昭和二十年八月二日の空襲で烏有に帰してしまいます。この空襲では水戸市役所や水戸駅、以前紹介した常磐神社や水戸城も消失してしまいます
終戦後、拝殿、本殿は昭和二十三年十月に復興され、以後増改築を重ねて平成元年一月までに本殿、拝殿、石の間、幣殿、中門、瑞垣、参集殿、社務所、随神門、神楽殿の復興が終了しています
さて、神社です
吉田神社の鎮座地は入り組んだ市街地の中にあり、事前に場所のあたりをつけておかないと少し分かり辛いかもしれません
社頭です
一の鳥居と、奉納された灯籠の列。朱色はなんだかピシッと居住まいを正してくれる、そんな気がします
社号標です
此方は文化十三年(1816)に奉納された大灯籠です。残念ながら東日本大震災により火袋から上は失われています
此方は平成十九年参拝時の写真ですが…大灯篭の写真を撮っていないΣ(゚д゚lll)あと少し左にカメラを向ければ・・・まあ、この頃はあって当たり前の灯籠でしたから…orz
石段途中から一の鳥居へ向けての写真です。一の鳥居の右手に在りし日の灯籠が・・・よくわかんないですね
石段手前の神橋です
これは神池です
神池には中に入る階段と、壇のようなものがあります。ここで禊をするのでしょうね
そのさらに奥にはこんなものが。覗くと屋根の下に水が見えるので井戸なんでしょうか?
石段を登り境内へ
こちらは石段途中にある大欅。推定樹齢が三百年と言われ、遠くからもその巨大さが見て取れます
ただ、僕の写真の腕では伝わりませんね(^_^;)
大欅を過ぎると二の鳥居があり、石段が続きます
石段を登り終えた所に三の鳥居が出迎えます
参道は更に続きます
此方は四の鳥居です。ちょっと控えるのを忘れてしまい正確ではありませんが、平成に入ってから奉納されたもののようです
四の鳥居から先には駐車場を兼ねた開放的な広場があります。此処は『吉田神社の見晴臺』として茨城百景にも選ばれています
かつては此処から水戸城がよく見えたんでしょうね、羨ましい( ´ ▽ ` )ノ
手水舎です
此方の灯籠は基礎が六角形ですね
随神門と狛犬です
狛犬も震災の被害を受けたようで、「吽」の狛犬は後ろが欠けています
立派な随神門ですね
境内です
枝垂桜が目を引きます
此方は平成十九年参拝時の枝垂桜です。満開は過ぎていますが、綺麗です(^-^)/是非満開の時に見てもらいたいですね
拝殿です
扁額です
神紋は「左三つ巴」です
本殿は神明造です
此方は拝殿右手の神楽殿です
本殿向かって左側は鬱蒼としています右側は一転して広く余裕のある空間となっています
境内末社は全部で十四社あります
本殿向かって左手の此方は「水戸神社」と「飯神社」です
本殿向かって右手の此方が「国見神社」と「早歳神社」です
此方は境内右手にある集合社で、右手から「松尾神社」「多賀神社」「住吉神社」「八幡宮」「大國主事代主神社」「疱瘡守護神社」になります
此方は随神門手前にある「吉田天満宮」です
他の境内社と違い、鳥居や拝所も設けられています
その他に「稲荷神社」「土師神社」「皇大神宮」があるようですが、見落としたようです
また、此方には別宮として「笠原神社」と「酒門神社」があります。後日参拝したら追加しようと思います
此方は三の鳥居と四の鳥居の間に在る「三角山」になります
御由緒にある、日本武尊がご休憩した場所として聖別されています。ちょっと写真は逆光が強過ぎますね(^_^;)
御朱印は社務所で頂けます
此方は平成十九年参拝時に頂いたものです
此方が平成二十四年の参拝時に頂いた御朱印になります
周辺には吉田古墳や、少し足をのばせば水戸城跡や偕楽園などの史跡も多くありますので、ゆっくり巡るといいかもしれませんね( ´ ▽ ` )ノ
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