2013年12月29日日曜日

女化神社(龍ケ崎市)

茨城県龍ケ崎市馴馬に鎮座する「女化神社(おなばけじんじゃ)」のご紹介です


当社の鎮座地は龍ケ崎市なのですが、周辺は牛久市女化町です。当社の敷地だけが龍ケ崎市の飛び地なんだそうです

御祭神は保食命になります

ご由緒として、創建は永正六年(1509)とされています。一説には建久年間(1190-1198)とも言われますが、これは当社に伝わる女化原の狐伝説に関わってきます

一般には永正六年に京都の伏見稲荷大社を詣でた人が稲荷信仰を伝えたのが始まりと言われています

当社の名称ですが、明治に入るまでは「女化稲荷」と称していましたが、明治二年に「保食神社」と改称します。しかし女化稲荷の通称が広く伝わっており、明治十七年に「女化神社」と再度改称し現在に至っています

 

さて、女化原の狐伝説ですが、幾つか話が伝わっているようです。今回は参拝時に頂いた「女化稲荷縁起」を参考に、概略を書いていきます

「建久の頃、富士の裾野に狩へ来た源頼朝の前に霊孤が現れ命乞いをします。そこで常陸国の高見が原に稲荷の祠があるのでそこに移り住むよう助言をします

時が過ぎ永正六年、常陸国根元村に忠五郎という律義者がおり、筵の行商の帰り道に一匹の狐を助けます。その夜に忠五郎の家に美しい娘と年老いた男が訪ね来て、一夜の宿を貸します。しかし翌朝になると年老いた男が消えてしまい、男を探す間、娘は忠五郎の家業をまめまめしく手伝い過ごします。三ヶ月ほど経った頃、周囲の勧めもあり忠五郎は娘を娶り、夫婦仲良く、八年の間に一女二男をもうけます

永正十四年の秋、長男に狐の姿を見られてしまい、それを恥じ、歌を一首書き残していなくなってしまいます

『みどり子の 母はと問はば をなばけの 原になく泣く ふすと答えよ』

忠五郎は嘆き悲しみ跡を追いますが、ついに見つけることは叶わいませんでした

この出来事が語り継がれて高見が原を「女化原」と呼び、「女化稲荷」と称するようになったそうです」

 

この縁起から、稲荷社自体は建久以前からあり、後年になり女化稲荷と呼称されたことがわかります

また、この話の続きも伝わっています。忠五郎は狐と再開し、狐は我が子の守り神となることを宣言し、涙を流して去って行きます。その後、忠五郎は我が子を立派に育て上げ、特に末っ子の竹松は京都へ上り公家に仕えます。そこで妻を娶り、千代松という子をもうけます。千代松は神童と呼ばれ、兵学を柳水軒白雲齋に学び、柳水軒義長という名前を頂きます。義長が、父の故郷に帰ると、そこでは北条氏と佐竹氏が勢力を争っていました。義長は、牛久城主岡見宗治の武将、栗林左京亮に仕え、幾つもの合戦を勝利に導き、左京亮の婿養子になり、栗林義長と名乗ります

小貝川での多賀谷氏との戦いでは火計を用いて大勝利を収めますが、その折、神前で風がどちらから吹くかを聞くと、狐のような顔をした老婆に風向きを教えられ、大勝利し、その加護に感謝して女化稲荷を建立したとのことです

此方では忠五郎の孫が女化稲荷を創建した話になっていますね

因みにこの栗林義長という人は実在の武将で、関東の孔明とまでよばれた知略家だったようです

 

さて、神社です

前述したように牛久市の中に飛び地である神社なので、龍ケ崎市というのを念頭に行くと不安になります。当然ですが、途中で牛久市の標識が出てきますのでナビを使用してても不安になります(^^;;下調べ、必要ですよね

社頭です

社号標です

「与福惣社」とありますが、由緒書きの方には「興福惣社」とあります

稲荷神社だけあって鳥居が幾つも続きます

手水舎です

狛犬の代わりにお狐さんがお出迎えです

向かって左側には子どもが二匹

向かって右側には一匹、合わせて三匹なのは女化原の狐伝説からなんでしょうかね?

拝殿です

以前の社殿は文久二年(1862)のものでしたが、老朽化で平成十四年に建て替えられたものになります

向拝の飾りも狐さんです

扁額です

神紋は稲紋と宝珠紋ですね

奉納絵馬が三枚かけられています

本殿は覆屋で覆われています

ちょっと見た限りでは、何かの蔵のような装いで、ここまで覆われているのは初めて見ました

そう言えば、茨城県の南部の神社には覆屋のかかる本殿が多い気がします。何か理由があるんですかね?

ちょっと失礼して覗くと、昔の扁額が置かれていました

本殿真裏の此方も稲荷社でしょうか?

御朱印は社務所で頂けます

今回は参拝時間が遅く、日が暮れてしまい、周辺を散策出来なかったです´д` ;民話とかも収集したいなぁ